シュルレアリスムとの出会い
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「山本悍右」の記事における「シュルレアリスムとの出会い」の解説
昭和初期『詩と詩論』、『cine´』(シネ)を通してシュルレアリスムを知り、15歳頃より作詩を始める。名古屋第二商業学校卒業後上京、アテネ・フランセでフランス語を学んだ。治安維持法下の東京で左翼思想に触れ、以後革命にほのかな夢を抱くようになる。明治大学を中退、名古屋に戻り、1931年、17歳の時、新興写真グループ「独立写真研究会」の結成に参加、会誌『独立』に作品を発表、早熟な才能を発揮していった。
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シュルレアリスムとの出会い
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「瀧口修造」の記事における「シュルレアリスムとの出会い」の解説
1926年、友人永井龍男らのすすめで同人誌『山繭』に参加。同人の富永太郎が死んだすぐあとであった。同人には他には小林秀雄などがいた。 イギリスオックスフォード大学から帰国した西脇順三郎に卒業までの間5年間教わる。西脇から瀧口は西洋の最新のモダニズム詩の運動のことを聞き、また西脇の自宅でダダイスムやシュルレアリスムを知り、アルチュール・ランボー、アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアールなどを原書で読み、次第に影響を受ける。1927年には西脇を中心にシュルレアリスム詩「馥郁タル火夫ヨ」(アンソロジー)刊行。1928年『山繭』に詩編「地球創造説」を発表。同人間に衝撃を与えた。同年、上田敏雄、上田保 (英文学者)、北園克衛、山田一彦、冨士原清一、三浦幸之助らで『衣裳の太陽』(編集発行人:冨士原清一)発刊、また詩雑誌『詩と詩論』(編集人:春山行夫、厚生閣書店刊)同人となる。1930年、シュルレアリスムの国際交流を目指す『LE SURRÉALISME INTERNATIONAL』(主唱者:瀧口修造、編集発行人:冨士原清一)を創刊、日本語版のみ、一冊のアンソロジーで終わる。しかしこの路線は後に『L'ÉCHANGE SURRÉALISTE』(山中散生編、1936年、ボン書店刊)、「海外超現実主義作品展」(1937年)として結実する。
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