サン=ローの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 04:55 UTC 版)
7月1日には、装甲教導師団は36輌の運用可能な4号戦車を有していた(加えて、29輌が短期の修理中、10輌が長期の修理中であった)。パンター戦車は32輌が運用可能(加えて26輌が短期修理中、8輌が長期修理中)であり、駆逐戦車と突撃砲は28輌が運用可能(さらに9輌が短期修理中、1輌が長期修理中)であった。7月7日、師団はティイ・シュル・ソル(英語版)から退いて西へ向かい、サン=ロー近傍でアメリカ軍の前進を阻んでいる各師団に支援を提供するよう命じられた。サン=ローの周辺地域は、「ボカージュ」として知られる高く伸びた昔日からの生垣と窪んだ小道とを擁する狭い野原からなっていた。ボカージュは装甲戦力の機動を著しく困難とし、戦闘における両陣営の歩兵部隊にはうってつけの防御陣地を提供した。 7月10日、装甲教導師団はアメリカ第9歩兵師団(英語版)・第30歩兵師団(英語版)の一部に対して、ル・デゼール(フランス語版)村落の周辺で反攻に出た。アメリカ軍のM10駆逐戦車群は30輌の装甲教導師団戦車を行動不能とし、残存戦車を比較的安全なヴィール水路(英語版)対岸への撤退に追い込んだ。 続く2週間以上に渡って、師団は消耗を伴う防衛戦を繰り広げた。7月19日、サン=ローはアメリカ軍の手に落ちた。6日後、アメリカ軍はノルマンディーの拠点から進撃するコブラ作戦を発動した。この頃には、師団は2,200名のみの戦闘要員を残しており、また活動可能な12輌の4号戦車と16輌のパンター戦車、そして戦線後方で様々な段階の修理が行われている30輌の戦車を有していた。1,500機以上の連合軍爆撃機による大規模な空爆が、当作戦に先行した。装甲教導師団は攻撃の経路に直接に居合わせており、師団はこの爆撃の間におよそ1,000名の死傷者を喫した。師団はまた、少なくとも14輌の突撃砲と10輌の戦車を失った。当初の頑強な抵抗にも関わらず、7月27日にはドイツ軍の防衛線は突破を許した。同日にバイエルラインは、装甲教導師団が「遂に殲滅された」と報告した。 8月1日には、装甲教導師団は行動可能な33輌の戦車と突撃砲を有しており、さらに44輌が修理設備にあった。そして戦闘を交えつつ後退の後、8月17日に休息と再装備のためアランソンに戻る旨の命令を受けた。師団は続いて、ドイツに休息と再装備のため呼び戻された。8月の間に、師団は1,468名の死傷者を被った。 編成後7か月を経ずして、師団は残存戦車数20輌に減った戦闘不能部隊とされていた。9月のある時点では、中隊規模の1個装甲擲弾兵大隊、1個工兵中隊、6門の105ミリ榴弾砲、5輌の戦車、1個偵察小隊、そしてはぐれた兵やトリーアで賜暇中の者を募った、およそ200名からなる1個緊急大隊(Alarmbattalion)のみがその編成内容であった。ザール地域で再装備のため1か月を過ごした後、師団はパーダーボルンへ移動し、72輌の戦車、21輌の突撃砲と補充兵を、ノルマンディーで被った損失の埋め合わせとして受領した。
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