ザール地域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 03:28 UTC 版)
フランスは1947年に石炭の豊富なザール地域をドイツから分離し、保護領としてフランスの経済的支配下に置いた。同地域は1957年1月1日にドイツ管理下に復したが、フランスは炭鉱採掘権を1981年まで保持した。 ザール地域は保護領としてフランスに経済統合され、名目上は政治的に独立したものの、安全保障及び外交に関する政策はフランスが決定した。更にフランスは、高等弁務官のザールにおける広汎な権力を維持した。ザールのドイツ復帰を主張する政党は、ザール政府の民主的合法性を西ドイツが認めていなかったために禁止された。ザールラントの今後に関する独仏間の係争継続を背景として、危機を孕んだ問題の解決策を見出す努力が西欧諸国によってなされた。国際的圧力が増す中、フランスは遂に妥協することで合意した。ザール地域は、西欧同盟の枠内で欧州化されることになった。仏独はパリ協定にて、ドイツとの平和条約が調印されるまでは、西欧同盟の閣僚理事会に責任を負う欧州委員会委員長が監修する「法律」の下でザール地域を統治することで合意した。だがザールラントは、フランスとの経済同盟を維持せねばならなかった。 西ドイツが法律を承認したにも拘らず、発効に必要とされたザールラントの住民投票が1955年に行われた際、67.7%の住民が法律に反対した。フランスは住民投票前、法律への「ノー」は単にフランスによるザールラント支配の継続を招くに過ぎないと主張したが、それにも拘らず、西ドイツとの統一に繋がる法律への「ノー」を唱える運動組織の主張は正しいことが判明した。ザールラントは1957年1月1日に西ドイツとの政治的再統合を果たしたが、経済的再統合には更に多くの歳月を要したのである。フランスはザール復帰に同意する見返りを要求し、以下の譲歩を得た。 フランスは1981年までヴァルント(ドイツ語版)の炭鉱から石炭を採掘することが認められた。 ドイツではモーゼル川の導水に同意せねばならなかった。これにより、ロレーヌの鉄鋼業界におけるフランスの輸送費は節減された。 ドイツは、ザールラントの学校において第1外国語としてフランス語を教えることに合意せねばならなかった。この合意は、拘束力が失われた現在も継続している。 同地のフランス化に向けたフランスの努力は、東欧諸地域の追放ドイツ人や東欧以外のドイツ人集落からの難民を西側占領地が受け入れないという結果も招いた。フランスは、同地域におけるドイツ語圏人口の増加を望んでいなかったのである。
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