サン=マルタン島とは? わかりやすく解説

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サン・マルタン島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/26 00:47 UTC 版)

サン・マルタン
Collectivité de Saint-Martin
サン・マルタンの旗 サン・マルタンの紋章
公用語 フランス語
行政所在地 マリゴ
大統領 ニコラ・サルコジ
知事 ドミニク・ラクロワ
準県議会議長 フランツ・R・ガンブス
面積
 -  総面積 54 km²
 -  水面積率 (%) -
人口
 -  推計(2006年) 35,263人
 -  人口密度 663/km²
GDP (PPP)
 -  合計
通貨 ユーロ (EUR)
時間帯 UTC-4 
 -  夏時間  UTC-3 
ISO 3166-1 MF / MAF
ccTLD .mf

サン・マルタンフランス語: Saint Martin)は、カリブ海リーワード諸島小アンティル諸島北部)にあるセント・マーチン島(フランス語名: サン・マルタン島)北部にあるフランス海外準県collectivité d'outre-mer, 略称: COM)である。

目次

地理

サン・マルタン

位置・広がり

フランス海外準県サン・マルタンCollectivité de Saint-Martin)は、サン・マルタン島(セント・マーチン島)の北半分に位置する。この島の中央には国境線が引かれており、南半分がオランダ領(シント・マールテン)となっている。南半分の「オランダ領側」を英語でダッチ・サイド (Dutch Side)とも呼び、対して北半分をフレンチ・サイド(French Side)とも呼ぶ。

また、海外準県サン・マルタンの領域には、サン・マルタン島の北東3kmに浮かぶティンタマール島英語版(0.8km²)など周辺の小島も含む。

地勢

サン・マルタンの地形

サン・マルタンは山がちな地形であり、起伏に富んだ多くの丘と多くの入り江がある。また、砂州が発達し、多くの潟湖を擁している。

フレンチ・サイドの南部、島のほぼ中央にあるピク・パラディ(424m)[1]は島の最高峰である。

西部にはシンプソン・ベイ・ラグーン (Simpson Bay Lagoonが広がっている。

気候

海洋性熱帯気候で、北東貿易風が卓越している。気候は温暖で、年平均降水量は1500mm。7月から11月までハリケーン・シーズンである。

主要な地区

首府は、西部の港町マリゴに置かれている。住宅の多くは海沿いの低地に建てられており[1]、グランカーズ(Grand Case)、コロンビエ(Colombier)、クルドサック(Cul-de-Sac)、カルティエ・ドルレアン(Quartier d’Orléans)、レ・テール・バス(Le Terres Basses)などの地区がある。

マリゴ  
マリゴから見た丘陵  
海から見たサン・マルタン  

歴史

島の北部がフランス領サン・マルタンで南部がオランダ領シント・マールテン

「発見」と争奪

この島は、1493年コロンブスによって「発見」され、サン・マルティン島(スペイン語: Isla de San Martín)と命名されたが、スペインはこの島への植民を重要視しなかった。島に注目をしたのは、フランスとオランダであった。フランス人たちは、トリニダードバミューダの中間に拠点を欲していたのである。1630年にフランス人とオランダ人が相次いで島にやってきて、当初は海賊の隠れ場所として使われていた。

1633年、スペインがオランダから島を奪取し、入植者たちのほとんどを追放した (Capture of Saint Martin (1633)。スペインはオランダによる奪回の試みを退けているが、一方で拠点経営への関心を失い、三十年戦争の終結と共に島を放棄した。

オランダとの分割

国境モニュメントのひとつ

空白となった島に、オランダとフランスが再び植民に乗り出した。フランスはセントキッツ島から、オランダはシント・ユースタティウス島から、それぞれ植民者を島に送り込んだ。この過程で衝突も発生し、相手が容易に退かないことを知った双方は、全面戦争に突入することを避けるべく、1648年にコンコルディア条約 (Treaty of Concordiaに署名して島を二分した。もっとも、その後も領土紛争は絶えることはなく、1648年から1816年にかけて境界線の変更は16度も生じている。現在の境界線が確定したのは、1815年パリ条約である。

島にはアフリカから多くの奴隷が移入された。最初に島へ奴隷を連れてきたのはスペイン人たちであったが、砂糖プランテーション栽培が拡大すると、移入され労働に従事させられた奴隷の数は膨大なものとなった。1848年7月12日、フレンチ・サイドで奴隷制が廃止された。

20世紀以後

奴隷制度廃止後、プランテーション経営は衰退し、島の経済も後退した。1939年、セント・マーチン島(フランス・オランダ双方)は免税港を宣言した。

フレンチ・サイドが観光産業に注力を始めたのは1970年代からで、1950年代にすでに観光業を中心とした発展を見せたダッチ・サイドに遅れをとっている。フレンチ・サイドでは、1980年代にホテルの建設など大規模な観光開発が進められた。

分離前のグアドループ県

かつてサンマルタンは、フランスの海外県であるグアドループ県の管轄下にあり、ともに北部諸島(les Îles du Nord)と総称されていたサン・バルテルミー島とともに、サン・マルタン=サン・バルテルミー郡 (Arrondissement of Saint-Martin-Saint-Barthélemyを構成していた。サン・マルタン=サン・バルテルミー郡には3つのカントン(小郡)、2つのコミューンが置かれており、サン・マルタンには2小郡(サン・マルタン第1小郡 (fr:Canton de Saint-Martin-1とサン・マルタン第2小郡 (fr:Canton de Saint-Martin-2)と1つのコミューン「サン・マルタン」があった。

グアドループ県から離脱と、サン・バルテルミーとの分離を求める声が高まり、2003年の住民投票で76.17%が単独の海外準県(COM)となることを選択した。、離脱・分離が決定された。

2007年2月22日、サン・マルタンは単独の海外共同体(海外準県)として発足した。

政治

サン・マルタンCollectivité de Saint-Martin)は、フランスの海外準県である。

グアドループ県は欧州連合(EU)の「外部地域」という位置づけになっており、ここから離脱したサン・マルタンも「外部地域」としての地位に置かれている。法定通貨はユーロとなっている。

経済

観光産業と金融関連の経済が中心。

人口

約33102人の人口がいて、住民の大半はアフリカ系の黒人で、クレオールフランス人の白人もいる。公用語はフランス語でフランス語のクレオール語も話す。宗教はローマ・カトリックが大半。

交通

ダッチ・サイドとの間の往来は容易であり、パスポートも不要。

港湾

サン・マルタンの中心地マリゴにあるマリゴ港は天然の良港で、多くのが訪れる。また、島にある多くの入り江は、海洋リゾートやヨットハーバー(マリーナ)として整備されている。規模の大きなものとしては北部のアンセ・マルセル(Anse Marcel)、東部のオイスター・ポンド(Oyster pond)などが挙げられる。

マリゴとイギリスアンギラとの間にフェリーが就航しているほか、サバ島サン・バルテルミー島との間にも定期旅客航路が結ばれている[2]

空港

フレンチ・サイド北部のグランカーズ地区に所在する小規模な飛行場で、サン・バルテルミー島グアドループなどカリブ海地域のフランス領とを結ぶ路線が発着している。島のダッチ・サイドには規模の大きなプリンセス・ジュリアナ国際空港がある。

脚注

外部リンク


セント・マーチン島

(サン=マルタン島 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/04 03:35 UTC 版)

セント・マーチン島
Saint Martin
現地名:
サン・マルタン島 (フランス語)
シント・マールテン島 (オランダ語)

愛称: The Friendly Island
北部が仏領サン・マルタン
南部が蘭領シント・マールテン
地理
場所 カリブ海
座標 北緯18度04分 西経63度03分 / 北緯18.067度 西経63.050度 / 18.067; -63.050座標: 北緯18度04分 西経63度03分 / 北緯18.067度 西経63.050度 / 18.067; -63.050
諸島 リーワード諸島小アンティル諸島
最高峰 ピク・パラディ
行政
フランス
海外準県 サン・マルタン
首都 マリゴ
オランダ
自治領 シント・マールテン
首都 フィリップスブルフ
人口統計
人口 72,892人(2006年1月1日年時点)
テンプレートを表示

セント・マーチン島(セント・マーチンとう、英語: Saint Martin)は、カリブ海リーワード諸島小アンティル諸島北部)にある島。島の北側はフランス領、南側はオランダ領に分割されており、フランス語サン・マルタン(仏: Saint-Martin)、オランダ語シント・マールテン(蘭: Sint Maarten)とも呼ばれる。

地理

周辺地図

位置・広がり

この島は、リーワード諸島北部に位置している。北にアンギラ海峡 (Anguilla Channelを隔ててアンギラ島(イギリス自治領のアンギラ領)、東南にサン・バルテルミー島など(フランス領の海外準県サン・バルテルミー)が、それぞれ近接してある。また、島の南方にはオランダの特別自治体(BES諸島)であるサバ島シント・ユースタティウス島がある。

島の面積は面積 88 km2。島の中央にフランスとオランダの国境線が走っており、現地では基本的にフランス領側(French Side フレンチ・サイド)をフランス語でサン・マルタン、オランダ領側(Dutch Side ダッチ・サイド)をオランダ語でシント・マールテンと呼び分けている。両者は等分されてはおらず、おおむねフランス:オランダ=4:3の比となっている。

サン・マルタン(フランス領側)はフランスの海外準県で、面積 54km2、人口 31,397人、首府はマリゴ。行政区画としてのサン・マルタンには、タンタマール島英語版など周辺の小島も含む。

シント・マールテン(オランダ領側)はオランダの自治領(オランダ王国構成国)で、面積 34km2、人口 35,000人、首府はフィリップスブルフ

2つの自治国家によって分割された最も小さな陸地とされる[1]。なお、フランスの領土とオランダの領土が地続きで接しているのは、世界でここだけである。

地勢

セント・マーチン島地図(英語)

島はおおむね山がちな地形であり、起伏に富んだ多くの丘と多くの入り江がある。また、砂州が発達し、多くの潟湖を擁している。まとまった広さの平坦な土地は砂州上などに限られている。

島の中央部に山塊があり、最高峰はフランス領側にあるピク・パラディ(424m)である。

西部には、カリブ海最大の潟湖である[2]シンプソン・ベイ・ラグーン (Simpson Bay Lagoonが広がっており、周辺はリゾート地帯となっている。

気候

フィリップスブルフ
雨温図説明
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
 
 
61
 
28
22
 
 
43
 
27
22
 
 
43
 
28
23
 
 
66
 
28
23
 
 
97
 
29
24
 
 
64
 
30
25
 
 
76
 
30
25
 
 
99
 
31
25
 
 
132
 
31
26
 
 
109
 
30
25
 
 
130
 
29
24
 
 
86
 
28
23
気温(°C
総降水量(mm)
出典:www.weatherbase.com
インペリアル換算
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
 
 
2.4
 
82
72
 
 
1.7
 
81
72
 
 
1.7
 
82
73
 
 
2.6
 
83
74
 
 
3.8
 
84
76
 
 
2.5
 
86
77
 
 
3
 
86
77
 
 
3.9
 
87
77
 
 
5.2
 
87
78
 
 
4.3
 
86
77
 
 
5.1
 
84
75
 
 
3.4
 
82
74
気温(°F
総降水量(in)

海洋性熱帯気候で、北東貿易風が卓越している。気候は温暖で、年平均降水量は1500mm。7月から11月までハリケーン・シーズンである[1]。島に特に甚大な被害をもたらしたハリケーンとして、1960年の「ドンナ」 (Hurricane Donna、1995年の「ルイス」 (Hurricane Luisが挙げられる。

歴史

「発見」

島には、先住民としてカリブ族アラワク族が暮らしていた。

1493年11月11日コロンブスは第2回航海でこの島を「発見」し、11月11日が聖マルティヌス聖名祝日聖マルティヌスの日)であることにちなんでサン・マルティン島(スペイン語: Isla de San Martín)と名付けた。コロンブスはこの島をスペイン領に帰するものと主張したが、スペインはこの島への植民を重要視しなかった。

島は各国の船や海賊たちが水や塩の供給地として利用するようになり、「塩の島」Soualiga と呼ばれるようになった[3]。17世紀に入ると、フランスとオランダがこの島に着目した。フランス人たちはトリニダードバミューダの中間に拠点を欲し、オランダ人たちはニューアムステルダムブラジルの中間に拠点を欲していたのである。

植民

オランダ人たちは1627年から1631年にかけて島に植民を開始し[3]1631年には町とアムステルダム砦 (Fort Amsterdam (Sint Maarten)を築いた。島の人口は少なかったため、拠点建設は容易に進んだ。Jan Claeszen Van Campen が最初の総督になり、間もなくオランダ西インド会社が塩鉱の経営に乗り出した。同様にフランス人やイギリス人の植民者も島に進出した。かれらが塩の交易に成功すると、スペインもこの島の価値に気づくようになった。当時、スペインとオランダは八十年戦争を繰り広げており、この島にも戦火は及んだ。

1633年、スペインがオランダから島を奪取し、入植者たちのほとんどを追放した (Capture of Saint Martin (1633)。スペインは Point Blanche に砦を建設している。オランダはたびたびセント・マーチン島の奪回を図ったが、すべて失敗に終わっている。のちにニューネーデルラント総督を務めることになるピーター・ストイフェサントは、1644年にセント・マーチン島への攻撃を指揮するも、片足を失っている (Attack on Saint Martin

スペインによる占領から15年が経過した1648年、八十年戦争は終結するが、このころにはスペインはカリブ海の拠点経営に関心を失っており、セント・マーチン島も放棄された。

分割

国境にあるモニュメント

空白となった島に、オランダとフランスが再び植民に乗り出した。オランダはシント・ユースタティウス島から、フランスはセントキッツ島から、それぞれ植民者を島に送り込んだ。1648年3月23日にフランスとオランダは、54km2をフランス領、34km2をオランダ領とする条約を結んだ。島を分割する署名がコンコルディア山の麓で行われたことから、コンコルディア条約 (Treaty of Concordiaと呼ばれている[3]。以後、オランダ側はシント・ユースタティウス島の管轄下に、フランス側はセントキッツ島の管轄下に置かれた[3]

18世紀から19世紀にかけて、イギリスが島の支配を図り、フランス・オランダと激しく争うこととなった。1648年から1816年にかけて、持ち主の交替は16度も生じている。

1815年パリ条約によって、現在の状況が確定した。

オランダ領側(シント・マールテン)では、1763年にフィリップスブルフが建設された。シント・マールテンは「シント・ユースタティウス植民地」「西インド植民地」を経て、1845年以降ほかのカリブ海地域のオランダ領とともに「キュラソー植民地」の一部となり、キュラソー島ウィレムスタッドの総督の管轄下に置かれた。

最初に島へ奴隷を連れてきたのはスペイン人たちであったが、その数は多くなかった。しかし、新たな産業としてプランテーションタバコ綿花が栽培されるようになると、膨大な奴隷たちが移入され、労働に従事させられた。奴隷たちは過酷な取り扱いに対してしばしば反乱を引き起こし、地主たちも無視はできなくなった。1848年、フランス領側で奴隷制度が廃止され、その15年後の1863年にはオランダ領側でもこれに続いた[1]。奴隷制度廃止後、プランテーション経営は衰退し、島の経済も後退した。この奴隷制度の廃止に関するフランスとオランダ両側の長官の間の一連の手紙は2017年にユネスコ世界の記憶に登録された[4]

20世紀

1939年、セント・マーチン島は免税港を宣言し[1][5]、経済発展に向けて進むようになる。

1943年、アメリカ軍の基地として飛行場(のちのプリンセス・ジュリアナ国際空港)が建設され、ドイツ軍の潜水艦との戦いの上で重要な役割を果たした。この頃には、島の南北の共通作業言語として英語が広く使われるようになった[3]

1950年代、シント・マールテンは観光地として着目を浴びるようになり、リゾート地としての開発が進められた。一つの島がオランダとフランスとに分けられているユニークな地理的状況もあって観光熱は周囲の島々よりも高く、プリンセス・ジュリアナ国際空港は東カリブで最も利用者の多い空港となった。島全体の人口も5000人程度から、1990年代半ばには8万人にまで増加した。

1994年、オランダとフランスはセント・マーチン島国境管理条約 (Franco-Dutch treaty on Saint Martin border controlsに調印した。

1995年9月に島を襲ったハリケーン「ルイス」 (Hurricane Luisは、島全体で12人の死者と数百人の負傷者、数千軒の家屋の倒壊という大きな被害をもたらし、観光業への打撃とそれに伴う失業者の増大など、産業・経済に大きな影響を及ぼした[3]。このハリケーンの衝撃から、「ルイス前」(pre-Luis)・「ルイス後」(post-Luis)という表現が使われるという[3]

21世紀

オランダ領側(シント・マールテン)を管轄していたキュラソー植民地は、第二次世界大戦後にオランダの自治領「オランダ領アンティル」となった。2010年10月、オランダ領アンティルは解体され、シント・マールテンは単独でオランダの自治領となった。

フランス領側(サン・マルタン)は1946年以降サン・バルテルミー島と共にフランスの海外県グアドループに属した。2007年、サン・マルタンはグアドループから分離し、単独でフランスの海外準県となった。

経済・産業

島の主要な産業は観光であり、オランダ領側では労働人口の4/5[1]、フランス領側では人口の85%[5]が観光関連業に従事する。島を訪れる観光客は年間200万人以上とされる[3]

フランス領側の一人当たり所得英語版はカリブ海地域で最高[5]、オランダ領側の一人当たり所得は旧オランダ領アンティル5島の中で最高[1]とされる。

住民

サン・マルタン(フランス領側)、シント・マールテン(オランダ領側)共にアフリカ系黒人が多いが、他にクレオールや白人も多い。宗教はキリスト教。

公用語はサン・マルタン(フランス領側)がフランス語でシント・マールテン(オランダ領側)がオランダ語だが、英語も幅広く話すので英語も通じる。

交通

プリンセス・ジュリアナ国際空港に降りるため、マホ・ビーチの十数メートル上空を飛ぶUSエアウェイズボーイングB757-200型機

空港

島内に空港は2つある。フランス領側北部のグランカーズ・エスペランサ飛行場と、オランダ領側西部のプリンセス・ジュリアナ国際空港である。規模が大きいのはプリンセス・ジュリアナ国際空港で、大型ジェット旅客機の発着も可能であり、島を訪れる観光客の玄関口となっているとともに、ビーチを低空で飛行機が通過する着陸風景は名物となっている。一方のグランカーズ・エスペランサ飛行場は、カリブ海フランス領の近距離路線が主となっている。

港湾

  • シント・マールテン港(フィリップスブルフ)
  • マリゴ港

フィクションの中のセント・マーチン島

脚注

  1. ^ a b c d e f SINT MAARTEN - CIA The World Factbook - 2012年1月23日閲覧
  2. ^ About St.Maarten - シント・マールテン政府公式サイト - 2012年1月22日閲覧
  3. ^ a b c d e f g h St Martin yesterday - サン・マルタン観光局公式サイト
  4. ^ Route/Root to Freedom: A case study of how enslaved Africans gained their freedom on the dual national island of Sint Maarten/Saint Martin” (英語). UNESCO. 2023年4月20日閲覧。
  5. ^ a b c SAINT MARTIN - CIA The World Factbook - 2012年1月23日閲覧

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