サラディンとの戦い
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「ボードゥアン4世 (エルサレム王)」の記事における「サラディンとの戦い」の解説
ボードゥアンは13歳で王位に就いた。彼の最初の摂政はミロン・ド・プランシーで、次がトリポリ伯レーモン3世である。国外ではサラディンがスーダンからユーフラテス川にかけて統一する機運であった。1175年レーモン伯はホムス方面に先制攻撃し、サラディンにアレッポを手放させた。その間に14歳であったボードゥアン王はダマスから約5キロの地であるダレイヤまで軍を進めた。翌年7月にまたもアレッポを包囲しようとするダマス軍に陽動作戦を加え、アンジャルの付近で破る。 1177年、エルサレム王国の精鋭がシリア北方で戦っている間に、サラディンは守りの薄くなった王国西南部のアスカロン要塞に、エジプトから騎兵で急襲した。王は400名の手勢を率いて「真の十字架」を奉じて立ち向かい、サラディンより先に要塞に着くが2万6千のエジプト兵に包囲される。エルサレムまで攻めこむつもりのサラディン軍を追い、敵の遊撃隊に焼き払われた農地を見ながら、やがて川床へ入る敵軍を見つけると「弱者のうちに力を現す神が、病気持ちの王を鼓舞したもうた。王は馬から降り、大地に跪き、十字架の前にひれ伏して、涙ながらに祈りあげた。そのさまを見て、すべての将兵は感きわまり、この期におよんでは、一歩も引かぬこと、馬首をめぐらすものは、だれでも裏切り者と見なすことを誓った。将兵は馬にまたがり、突撃に出た」(ミシェル・ル・シリアンの年代記より)。イスラム教徒は病身の少年が率いる300の騎兵に蹴散らされ、ボードゥアンはエルサレムに凱旋した(モンジザールの戦い)。しかし、1179年6月10日のマルジュ・アユーンの戦いでは敗れ、ヤコブの浅瀬の戦いではシャステレ城の建設を頓挫させられた。同年10月にヨルダン川上流に要塞を築き、サラディン軍と死闘を繰り返し、1180年にはイスラム勢と講和の協定を結ぶ。 ところが翌年、エルサレム王国の封臣である外ヨルダン領主ルノー・ド・シャティヨンが非常識にも休戦破棄を告げずアラビアのヒジャーズ地方へ侵入し、大きな隊商をおそったため、サラディンはエジプト全軍でルノーの領地・外ヨルダンに押し寄せた。ボードゥアンはルノーの行いに激しく憤ったが、1182年6月に救援を呼びかけられてモアブからガリラヤまで転戦し、サラディンの大軍を追い返した。8月にはベイルート防衛にも成功している。 ボードゥアンはイスラム圏でもヌールッディーンの家系に属するアレッポ総督とモスル総督の独立を助けサラディンに対抗する。この2つの都をサラディンが攻めるとボードゥアンはダマスとホーラン地方に強力な牽制攻撃をかけて、ダマス近郊のダレイヤまで進出した。1183年11月にルノーがまたしても私掠船でヒジャーズ地方を荒らし、サラディンの反撃を誘う。ボードゥアンは全身不随、盲目という有様で軍の後から担架でルノーの要塞であるケラク城に着き、サラディンの軍と戦った(ケラク包囲戦(英語版))。サラディンが退却した後、守備隊を増強し城壁を立て直すまで、エルサレムに帰らなかった。
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