サラディンとの戦いとは? わかりやすく解説

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サラディンとの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/05 01:31 UTC 版)

ボードゥアン4世 (エルサレム王)」の記事における「サラディンとの戦い」の解説

ボードゥアン13歳王位就いた彼の最初摂政はミロン・ド・プランシーで、次がトリポリ伯レーモン3世である。国外でサラディンスーダンからユーフラテス川にかけて統一する機運であった1175年レーモン伯はホムス方面先制攻撃し、サラディンアレッポを手放させた。その間に14であったボードゥアン王はダマスから約5キロの地であるダレイヤまで軍を進めた翌年7月にまたもアレッポ包囲しようとするダマス軍に陽動作戦加えアンジャル付近で破る。 1177年エルサレム王国精鋭シリア北方戦っている間に、サラディン守り薄くなった王国西南部のアスカロン要塞に、エジプトから騎兵急襲した。王は400の手勢を率いて真の十字架」を奉じて立ち向かいサラディンより先に要塞に着くが2万6千のエジプト兵に包囲されるエルサレムまで攻めこむつもりのサラディン軍を追い、敵の遊撃隊焼き払われ農地を見ながら、やがて川床へ入る敵軍を見つけると「弱者のうちに力を現す神が、病気持ちの王を鼓舞したもうた。王は馬から降り大地跪き十字架前にひれ伏して涙ながらに祈りあげた。そのさまを見てすべての将兵は感きわまりこの期におよんでは、一歩も引かぬこと、馬首めぐらすものは、だれでも裏切り者見なすことを誓った将兵は馬にまたがり突撃出た」(ミシェル・ル・シリアンの年代記より)。イスラム教徒病身少年率い300騎兵に蹴散らされボードゥアンエルサレム凱旋したモンジザールの戦い)。しかし、1179年6月10日マルジュ・アユーンの戦いでは敗れヤコブの浅瀬の戦いではシャステレ城の建設頓挫させられた。同年10月ヨルダン川上流要塞築きサラディン軍と死闘繰り返し1180年にはイスラム勢と講和協定を結ぶ。 ところが翌年エルサレム王国封臣である外ヨルダン領主ルノー・ド・シャティヨン非常識に休戦破棄告げずアラビアヒジャーズ地方侵入し大きな隊商をおそったため、サラディンエジプト全軍ルノー領地・外ヨルダン押し寄せたボードゥアンルノー行い激しく憤ったが、1182年6月救援呼びかけられてモアブからガリラヤまで転戦しサラディン大軍追い返した8月にはベイルート防衛にも成功している。 ボードゥアンイスラム圏でもヌールッディーン家系属すアレッポ総督モスル総督独立助けサラディン対抗する。この2つの都をサラディン攻めるとボードゥアンダマスとホーラン地方強力な牽制攻撃をかけて、ダマス近郊のダレイヤまで進出した1183年11月ルノーまたしても私掠船ヒジャーズ地方荒らしサラディン反撃を誘う。ボードゥアン全身不随盲目という有様で軍の後から担架ルノー要塞であるケラク城に着きサラディンの軍と戦ったケラク包囲戦英語版))。サラディン退却した後、守備隊増強し城壁立て直すまで、エルサレムに帰らなかった。

※この「サラディンとの戦い」の解説は、「ボードゥアン4世 (エルサレム王)」の解説の一部です。
「サラディンとの戦い」を含む「ボードゥアン4世 (エルサレム王)」の記事については、「ボードゥアン4世 (エルサレム王)」の概要を参照ください。

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