サラディンの施政とその人となり
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「サラーフッディーン」の記事における「サラディンの施政とその人となり」の解説
若年時から文武共に誉れが高く、出世して職責が高まるとともに贅沢を辞めるなど、機を読むことに長けていた。当時のイスラーム君主の常として少年を愛したことでも知られている。 かつてエルサレムを占領した第1回十字軍は捕虜を皆殺しにし、また第3回十字軍を指揮したリチャード1世も身代金の未払いを理由に同様の虐殺を行った。しかし、サラディンは敵の捕虜を身代金の有無に関わらず全員助けている。彼は軍事の天才であるが、このような寛大な一面もあって、敵味方を問わずにその人格は愛され、現在まで英雄としてその名を残しているのである。捕虜を助けた事に関して、次のような逸話がある。サラディンが身代金を支払わない捕虜の扱いに困っていると、彼の弟(後に4代目スルタンとなったアル=アーディル)が捕虜を少し自分に分け与えるよう進言した。サラディンは訳を訊ねるが弟は答えず、彼の言う通りに捕虜を与えてやった。すると、弟は自分の物だからと言って全て解放してやり、こうするのが良いのだと兄に言った。喜ぶ兵士たちの姿を見たサラディンは捕虜を殺さないことを決心したという。また、病床にあるリチャード1世に見舞いの品を贈る等、敵に対しても懐の深さを見せている。 その寛容さは名声を高めたが、しばしば不利益となっても現れた。行軍の際に、途中で立ち寄った村の村人たちに軍事費の一部を分け与えていたため、彼の兵士の多くは軍事費を自腹で用意しなければならない程であったという。私財も常にそのように用いたため、サラディンの遺産は自身の葬儀代にもならなかった。また、ハッティンの戦いでティールに追い込んだ守将バリアンに対し、当初は武装解除を条件に脱出を許可していたが、書簡でエルサレムの指揮権を請われるとこれを認めて入城させ、エルサレム攻略戦での苦戦を招いている。 上記のような寛容な逸話が多いが、無条件に甘い人物というわけではなく、中でも度々休戦協定を破って隊商を襲ったルノー・ド・シャティヨンに対する怒りは大きかった。ハッティンの戦いでルノーを捕らえた際、彼と配下の騎士団員を一人残らず処刑している。前述の弟の寛容さに関しても必ずしも同意ではなく、アッコンで捕えた聖職者を自分に無断で解放した際には罰を与えている。 中世ドイツの詩人が君主に求めた徳は、勇敢さと気前良さ(物惜しみをしないこと)であるが、サラディンの気前良さは君主の目標とされた。ドイツ中世盛期の詩人ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデは、1198年9月8日マインツでドイツ王として戴冠したフィリップ・フォン・シュヴァーベンに向かって、王たる者はサラディンを手本に「快く施しを」すべきと説き、「王の手は孔だらけでなければならぬ」、「かくしてその手は畏れられ又愛されることだろう」というサラディンの言葉を引用している。 ヨーロッパ文学における「高貴な異教徒」のイメージ(中世ドイツ文学では、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『ヴィレハルム』において、愛する貴婦人のために戦う異教徒の騎士)を決定づけたのは、残酷な宗教としてとらえるヨーロッパのイスラム像に当てはまらないサラディンの行動(例えば、1187年 エルサレム占領時)である。
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