サラエボ裁判の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 17:40 UTC 版)
死刑となる可能性がある成年の被告らは裁判中、自らの暗殺への関与は不本意であったと主張した。そのような被告の代表的な例は、事実上セルビアの諜報機関として活動していた民族主義組織「ナロードナ・オドブラナ(英語版)」のエージェントであり、暗殺計画では武器輸送の調整役を務めたヴェリコ・チュブリロヴィッチ(英語版)であった。チュブリロヴィッチは、プリンツィプの背後には残虐な革命組織が存在したため、彼に従わなければ自分の住居は破壊され、家族は殺害されることになると恐れていたと述べた。なぜ法による保護を求めず、法によって裁かれる危険を犯したのかについて尋ねられた際に、チュブリロヴィッチは「私にとっては暴力の方が法律よりも恐ろしかった」と述べた。同じく「ナロードナ・オドブラナ」のエージェントであったミハイロ・ジョヴァノヴィッチ(英語版)も、大公の暗殺には反対していたと証言した。 一方で、死刑を宣告されることがない未成年の被告らは、大公暗殺の全ての責任を自らに帰そうと試みた。セルビア王国の官吏が暗殺に関与したとの告発に対して、ベオグラードから計画に参加した3人(プリンツィプ、チャブリノヴィッチ、グラベジュ)は裁判中、責任は自分たちにあると主張し続け、セルビア当局が追及されるのを避けようとした。その目的のため、3人は裁判前の供述とは異なる法廷証言を行っていた。詰問を受けたプリンツィプは、「私はユーゴスラヴ主義者であり、すべての南スラブ人が統一されることを望んでいる。それがどんな形の国家になろうとも、オーストリアから自由である限りはどうでもよい」と述べた。その後、その望みをどのように実現しようとしているのかを尋ねられると、「テロによってだ」と回答した。一方でチャブリノヴィッチは、自らをオーストリア大公暗殺に駆り立てた政治思想はセルビア国内の党派から学んだものだったと証言した。裁判では、セルビア当局が潔白であるとする被告らの主張は信用されなかった。判決は、「本法廷は、証拠により証明されたものとして、「ナロードナ・オドブラナ」ならびにセルビア王国軍諜報部の双方が、共同でこのような凶行に及んだと見なす」と述べた。 被告人に下された判決は以下の通りであった: 被告人名判決ガヴリロ・プリンツィプ 懲役20年 ネデリュコ・チャブリノヴィッチ(英語版) 懲役20年 トリフコ・グラベジュ 懲役20年 ヴァソ・チュブリロヴィッチ(英語版) 懲役16年 ツヴィエトコ・ポポヴィッチ(英語版) 懲役13年 ラザル・ジュキッチ 懲役10年 ダニロ・イリッチ(英語版) 絞首刑 (1915年2月3日執行) ヴェリコ・チュブリロヴィッチ(英語版) 絞首刑 (1915年2月3日執行) ネジョ・ケロヴィッチ 絞首刑(のちに皇帝フランツ・ヨーゼフ1世によって懲役20年に減刑) ミハイロ・ジョヴァノヴィッチ(英語版) 絞首刑 (1915年2月3日執行) ヤコブ・ミロヴィッチ 絞首刑(のちに皇帝フランツ・ヨーゼフ1世によって終身刑に減刑) ミタル・ケロヴィッチ 終身刑 イヴォ・クラニツェヴィッチ 懲役10年 ブランコ・ザゴラック 懲役3年 マルコ・ペリン 懲役3年 スヴィヤン・スティエパノヴィッチ 懲役7年 その他の被告人9名 無罪 裁判中、チャブリノヴィッチは暗殺に参加したことに対する後悔を表明した。 判決が下された後、チャブリノヴィッチは孤児となった大公夫妻の3人の子供たちから、その罪を許す旨の手紙を受け取った。懲役20年を言い渡されたチャブリノヴィッチとプリンツィプは、その後結核によって刑務所内で死亡した。オーストリア=ハンガリー法の下での懲役20年は、事件当時未成年(20歳未満)であった被告に対する最も重い刑罰だったが、プリンツィプの実際の生年月日については多少の疑いが存在したため、裁判では彼の年齢に関する議論が行われ、最終的にプリンツィプは暗殺時に20歳未満であったとの結論が下された。ポポヴィッチとチュブリロヴィッチは終戦直後の1918年に出所した。ポポヴィッチはサラエボ博物館の学芸員を勤め、1980年に死去した。サラエボ事件当事者最後の生き残りとなったチュブリロヴィッチは、ベオグラード大学教授、ユーゴスラビア森林相を勤め、1990年に死去した。
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