サユディスの運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 10:04 UTC 版)
詳細は「歌う革命」を参照 この運動はゴルバチョフの政策を支持したが、また同時にリトアニア語の公用語としての復権など国内問題にも取り組んだ。またサユディスは、ヨシフ・スターリン時代の情報の開示、環境の保護、イグナリナ原発第3炉の建設中止、1939年に調印された独ソ不可侵条約付属の秘密議定書の情報開示、などを要求した。 サユディスは、大規模集会を開いてこれらの目標を押し進めようとした。当初共産党指導部はそうした集会へは参加しないようにしていたが、1988年中頃にもなると集会への参加が政治的に必要不可欠となっていった。そして6月24日、ついにリトアニア共産党産業担当書記のアルギルダス・ブラザウスカスがサユディスの集会に出席した。同年10月、ソンガイラに代わってブラザウスカスがリトアニア共産党第一書記に就任する。共産党指導部は、サユディスを厳重に取り締まることで圧力をかけたが、逆に民衆の抗議に直面することとなった。サユディスは新設されたソビエトの立法機関である人民代議員大会の選挙でも成功を収め、候補を立てた40選挙区中36選挙区で勝利した。 1989年2月、サユディスはリトアニアが強制的にソビエト連邦に併合されたと宣言。運動の最終目標をリトアニア独立の達成とした。次いで同年5月、サユディスはリトアニアの国家主権を宣言するとともに、リトアニアのソ連併合は非合法的であったと主張した。 1989年8月23日、独ソ不可侵条約調印から50年にあたるこの日、200万人が集まりタリンからヴィリニュスまで600キロメートルにわたる人間の鎖がつくられ、バルト三国は国際社会の注目を集めた。このデモとその組織化の努力は、「バルトの道」として知られるようになった。 1989年12月、リトアニア共産党はソビエト連邦共産党から離脱し、独裁政党制の廃止に合意。1990年2月の選挙でサユディスは定数141議席のうち101議席を獲得し、共和国最高会議(国会)の圧倒的多数を占める。ヴィータウタス・ランズベルギスは最高会議議長に選出された。そして1990年3月11日、リトアニアは独立を宣言。これはソ連構成共和国で初めてのことであった。 翌年1月8日、独立を認めないソビエト連邦政府はリトアニアに武力介入し、1月13日、ヴィリニュス近郊で14人が死亡、268名が負傷する事件となった。いわゆる「血の日曜日事件」である。これに対し、同じく連邦政府とは対立関係にあったロシア共和国のエリツィン大統領は同日のうちにリトアニアの主権を表明した。 その後もリトアニア政府と連邦政府の間の協議は平行線をたどっていたが、1991年8月19日、モスクワでソ連共産党保守派がゴルバチョフを幽閉するクーデターを起こし失敗。これを機にソ連は崩壊へと向かった。
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