ゴーリズムの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:10 UTC 版)
詳細は「栄光の三十年間」を参照 1960年はアフリカ植民地の多くが独立(アフリカの年)したものの独立時に戦火を交えた一部の国を除いて良好な関係を保ち、元植民地の国に多額の援助を行った。1962年 8月22日には、パリ北郊のプチ=クラマールでド・ゴールを乗せた車が銃撃に遭うなどの災難にもあったが、翌1963年にはエヴィアン協定を通じて、アルジェリアの独立が決定的なものとなり、第四共和政以来、問題となっていた植民地問題の多くは解決した。また経済面では1961年に成立したヨーロッパ共同体において中心的な役割を果たし、1973年の第一次オイルショックまで高い経済成長率を維持した。この期間を経済学者のジャン・フーラスティエ(英語版)は栄光の三十年間と呼んだ。 ド・ゴールはフランスの栄光の実現のためならば、時として政策理念の合わない閣僚の更迭を強行し、非政治家の人物を側近に置いて行政府を支配するなどの手段を取り、これらは「ゴーリズム」と呼ばれた。またド・ゴールは欧州統合の流れに対して、主権国家を維持した国家連合構想を提唱し、欧州統合派が主張する「超国家的な統合」を批判した。一方で、1963年1月には西ドイツのアデナウアー首相とともに仏独協力条約が結ばれ、仏独関係が急速に再建されていった。一方で対英関係に対しては対独関係と反比例するように悪化の一途をたどり、1963年1月のハロルド・マクミラン保守党政権時代と1967年5月のハロルド・ウィルソン労働党政権時代のイギリスの二大政党からの欧州諸共同体への加盟申請はいずれもド・ゴールによって拒否された。 さらにド・ゴールは西側諸国やアメリカとの妥協が結果としてフランスの自立を曖昧なものとさせた第四共和政時代の外交を批判し、「偉大なフランスへの追求」という理念から、アメリカのヘゲモニーに対する挑戦を目指した。それらは1960年のサハラ砂漠での実験による核兵器開発の成功によって得た核抑止力に基づく自立外交などを展開させた。こうした外交は1962年のケネディ・マクミランによる米英首脳会談での多角的核抑止戦略の提案の拒否や、1963年8月の米英ソなどによって結ばれた「部分的核実験停止条約」 (PTBT)への参加・調印の拒否などが行われた。
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