グライヴィッツ事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:49 UTC 版)
「ラインハルト・ハイドリヒ」の記事における「グライヴィッツ事件」の解説
詳細は「グライヴィッツ事件」を参照 1939年8月にヒトラーは、ポーランド侵攻の意思を固め、ヒムラーとハイドリヒに開戦口実を作るための偽装工作を命じた。こうして計画されることとなるのが「ヒムラー作戦」と名付けられたグライヴィッツ事件であるが、この計画の立案者もハイドリヒであった。 その計画とは、自分の部下にポーランド国境に近いグライヴィッツのラジオ局をポーランド軍人に成り済ましたうえで占拠させ、ポーランド語でドイツとの開戦を煽る声明を放送させる計画であった。また強制収容所の囚人を殺害してその死体にポーランド軍服を着せて現場に置き残し(死体は「缶詰」と呼ばれた)、襲撃犯たちが死んだと見せかける事も計画された。この計画は8月初めにヒトラーの了承を得て実行に移されることとなった。 早速ハイドリヒは、SD外務局長ハインツ・ヨストにポーランド兵の軍服を、保安警察ゲシュタポ局長ハインリヒ・ミュラーに強制収容所から「缶詰」を調達するよう命じた。さらにグライヴィッツ放送局襲撃実行部隊の指揮官としてアルフレート・ナウヨックスを任じた。 ヒトラーは計画実行を8月26日午前4時30分と定めていたが、この計画がイギリスに漏れ、イギリスは8月25日午後にポーランドと相互援助協定を結ぶことを決定した。これを聞いたヒトラーが急遽、作戦中止を命令したため、ハイドリヒも国境付近で待機していたナウヨックスらに電話で中止を命令。作戦は一時延期された。 しかし、ヒトラーは再度ポーランド侵攻の日を9月1日午前4時45分に決定。これを受けてハイドリヒは8月31日午後4時にナウヨックスに電話を入れて「祖母が死んだ」という暗号による作戦開始の指令を出した。ナウヨックスらは午後8時少し前、ラジオ局に突入した。銃を乱射しまくり、拳銃の銃身で局員たちを殴打した。ラジオ局を制圧すると「結束してドイツ人を一人残らず叩き潰せ」などとラジオ放送してポーランド国民を扇動した。4分間ほど放送したのち、ナウヨックスは、ミュラーから渡された「缶詰」を置き残して、撤収命令を出して去っていった。 翌日、アドルフ・ヒトラーは「ポーランド軍」によるグライヴィッツ放送局の攻撃を批判。いまやドイツとポーランドは戦争状態に入ったとしてポーランドとの戦争を国会において宣言したのであった。
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