グライヴィッツでの出来事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 09:14 UTC 版)
「グライヴィッツ事件」の記事における「グライヴィッツでの出来事」の解説
グライヴィッツ事件について判明していることのほとんどは、戦後のニュルンベルク裁判における親衛隊少佐アルフレート・ナウヨックスの宣誓口供書による。ナウヨックスの証言によると、この事件は親衛隊大将ラインハルト・ハイドリヒと国家秘密警察のハインリヒ・ミュラーの命令により、ナウヨックス自身が準備したものである。 1939年8月31日夜、ナウヨックスに率いられた一団のドイツ工作員がグライヴィッツのラジオ局を襲撃し、シュレジェン地方のポーランド系住民に向けてポーランド語でドイツに対するストライキを呼びかけた。ドイツの目的は、この襲撃と放送を反ドイツ的ポーランド系住民の暴徒のしわざに見せかけることだった。 この襲撃場面をよりそれらしく見せるため、ナウヨックスの部隊はフランチシェック・ホニオック(Franciszek Honiok)を連れてきていた。当時44歳のホニオックはドイツ系シレジア人で、ポーランド人に好意的な人物と看做され、前日にゲシュタポによって逮捕されていた。ホニオックはポーランド軍の工作員のような服装をさせられ、致死量の毒物を注射され、銃で撃たれた。ホニオックが着せられたポーランド軍風の服を調達したのはオスカー・シンドラーである。遺体は現場のラジオ局に残され、あたかも彼がラジオ局を襲撃した際に殺されたように見せかけられた。後に遺体はドイツの警察とマスコミに提示され、ポーランド側による襲撃の証拠とされた。ホニオックに加えて、他に数人の囚人がこの目的に使用されるために準備されていた。 ドイツはこの襲撃計画を Konserve (缶詰)という暗号名で呼んでいた。このため、この事件は「缶詰事件」と呼ばれることもある。
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