クローズド・サーキット・テレビジョンの弱体化と衛星放送
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「アメリカ合衆国のボクシング中継」の記事における「クローズド・サーキット・テレビジョンの弱体化と衛星放送」の解説
しかし、ABCの打ち切り発表後、1964年2月にはローマ五輪金メダリストのカシアス・クレイ(後のモハメド・アリ)がフロリダ州マイアミビーチでソニー・リストンに勝利して22歳で世界ヘビー級王者となっていた。ABCはそれ以前の試合のうち8戦を特に大きく扱わずに中継していたが、リストン戦がCCTVで中継された6週間後の土曜日の午後、スポーツ中継番組『ワイド・ワールド・オブ・スポーツ』でこれを放送し、高視聴率を上げた。次のフロイド・パターソン戦は1965年11月に行われ、ABCが同番組で録画放送したのは1966年に入ってからだったが、これも高視聴率を記録した。アリが契約書類への署名の不備などを理由にイリノイ州をはじめとする各州で試合を禁じられた後、CCTVはボイコットに巻き込まれ、当初の対戦相手も変更された。1966年3月にカナダでジョージ・チュバロとの試合が組まれたが、経営は大赤字でプロモーターも打撃を受けた。ボブ・アラムが興して間もないメインバウト社(トップランク社は1970年設立)は試合をめぐる権利の一部を所有しており、試合をプロモートしたアラムは、米国でのアリはCCTVが関わっている限り終わったも同然だ、と語っている。この試合は3日後にABCが録画放送した。試合主体で放送するのではなく、繰り返されるローブローでへこんだ金属製のファウルカップを映し、なぜアリが国外で防衛戦をしなければならなかったかなど試合を取り巻く問題を説明した。 アリがベトナム戦争についての発言などで抗議を受けるまで、ABCはCCTVの財力に対抗できず、ディレイで放送するのがやっとだったが、抗議はヘビー級タイトルマッチの不文律を変えた。まず、政治的な圧力に弱い何千もの個人経営の劇場を含むCCTVを消極的にさせた。そしてアリはカナダでの防衛戦を強いられたが、20世紀前半にヘビー級の世界戦が国外で行われたことは2度しかなかった。アラムはアリの次の3戦をヨーロッパで開催することを計画した。1965年に打ち上げられた通信衛星アーリーバードはヨーロッパからの衛星放送を比較的容易にしており、ABCはすでに『ワイド・ワールド・オブ・スポーツ』でこれを実践していた。アラムのメインバウト社はこの3試合をABCと契約し、アーリーバードを利用して衛星中継した。アーリッジは視聴者層の拡大のために選手の個性や開催地、アリをめぐる論争などを紹介し、ボクシングの試合自体は番組の一部に過ぎなかった。また、それまでは解説者が1人しかいなかったが、1966年5月21日にロンドンから中継されたヘンリー・クーパー戦では放送席に3人が入り、副解説をハワード・コセルとロッキー・マルシアノが務めた。ABCは30分間の煽り映像を用意していたが、直前の試合が初回KOで終わり、英国の試合役員はアリとクーパーに2分後に入場するように指示した。コセルに懇願されたアリは、手を叩き足を踏み鳴らして今や遅しと待っている観客をよそに入場を18分遅らせて番組を救った。ロンドンでもう1試合した後、1966年9月10日のフランクフルト開催のカール・ミルデンバーガー戦では、スポーツで初めてカラー放送による衛星中継が行われた。ヨーロッパでの3試合も高視聴率を博したが、アリの徴兵問題と政治的圧力によって、この後7年間、アリの試合は中継されなかった。
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