クラークのビンセンズ行軍
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「イリノイ方面作戦」の記事における「クラークのビンセンズ行軍」の解説
1779年1月29日、イタリア人毛皮交易業者のフランシス・ヴィーゴがカスカスキアに来て、クラークにハミルトン隊によるビンセンズ再占領を伝えた。クラークは冬の間にビンセンズを急襲し、ハミルトンが春にイリノイ地方を再確保する前に動く必要があると決断した。クラークはヘンリー知事に宛てて次のように文書を送った。 これがイチかバチかの事態であることは承知しています。しかしながら閣下、我々にはこの地方を諦めるか、ハミルトンを攻撃するしかありません。一時の猶予も許されません。援軍が得られると確信できるなら、このような賭けには出ません。どのような運命が我々を待ち受けているのか、それは誰にも分かりません。ここまでは、よく統率された数少ない男たちによって偉大な功績をあげてきました。我々に運がついて回ることもあるやもしれません。正義は我らにあり、たとえ失敗に終わっても、我が国は我々に感謝し、この行動を非難することはないでしょう。それが我々にとっての慰みです。我々が失敗したときは、イリノイもケンタッキーも失われることでしょう。 1779年2月6日、クラークはおそらく約170名の志願兵と共にビンセンズを発った。その半数近くはカスカスキアのフランス人民兵だった。この遠征ではボーマン大尉が副指揮官となり、クラークはその遠征隊を「最後の頼みの綱」と呼んでいた。クラーク隊が行軍する間に、40名は武装ガレー船で残り、ビンセンズからウォバッシュ川の下流に留まって、イギリス兵が水路を逃げようとしたときの備えにした。 クラークは現在のイリノイ州を横切る約180マイル (290 km) の行程を率いた。この年の冬は寒くなく、しばしば雨が降り、平原は数インチの水で覆われていることが多かった。食料は荷馬に負わせ、兵士が移動しながら銃で撃ち殺す野生動物で補った。2月13日にリトルウォバッシュ川に到着したが、川水が溢れて流れは幅約5マイル (8 km) にもなっていた。部隊は大型のカヌーをこしらえ、兵士と物資を何度も往復して渡した。その後の数日間は特に大変だった。食料が枯渇し、兵士はほとんど常に水の中を歩いている状況だった。2月17日にエンバラス川に到着した。サックビル砦まで僅か9マイル (14 km) の距離だったが、川が深くて渡れなかった。エンバラス川に沿って下流のウォバッシュ川まで下り、そこで翌日には船を建造し始めた。士気は低く、最後の2日間は食料も無く、クラークは兵士が脱走しないようにしておくだけで苦労した。 2月20日、ビンセンズの5人の猟師が船で移動しているところを捕まえられた。彼等はクラークに、その小さな軍隊が見つけられて居らず、ビンセンズの住民は依然としてアメリカ側に同調的であると伝えた。翌日クラーク隊はウォバッシュ川をカヌーで渡った。荷馬は後に残した。その後は時として肩まで水に浸かる中をビンセンズまで行軍した。最後の2日間が最も大変だった。幅約4マイル (6 km) の水が溢れた平原を横切るときは、疲労が極限に達した者達を順次カヌーで渡した。ビンセンズに達する直前に、友好的であることが分かっていた村人に出遭い、部隊がまだ感知されていないことが告げられた。クラークはその男にビンセンズ住民に宛てた手紙を持たせて先に立たせ、クラークが軍隊と共にまさに到着しようとしていること、敵だと思われたくなければ、家の中に留まっているよう伝えさせた。この伝言は公共広場で読み上げられた。ハミルトンに警告するために砦に向かう者は居なかった。
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