クバーナ航空455便爆破事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 06:07 UTC 版)
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![]() 事故機のCU-T1201 | |
出来事の概要 | |
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日付 | 1976年10月6日 |
概要 | 爆破テロ |
現場 |
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乗客数 | 48 |
乗員数 | 25 |
負傷者数 | 0 |
死者数 | 73 (全員) |
生存者数 | 0 |
機種 | ダグラス DC-8-43 |
運用者 |
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機体記号 | CU-T1201 |
クバーナ航空455便爆破事件(Cubana Flight 455)は、1976年10月6日にキューバの民間航空機に対する爆破テロによって発生した航空事故である。
事件の概要
1976年10月6日、クバーナ航空(キューバ航空)455便はダグラスDC-8-43(機体記号:CU-T1201)で運航されており、ガイアナのジョージタウンからトリニダード・トバゴとバルバドスとジャマイカを経由してキューバのハバナに向かうフライトプランであった。
455便は経由地のバルバドス・シーウェル空港(現在のグラントレー・アダムス国際空港)を離陸し次の経由地であるジャマイカ・キングストンに向かうはずであった。離陸して9分後、18000フィートを飛行していた午後5時24分に機体後部の洗面所で爆発が発生した。機長は直ちに「機内で爆発が起きた!機が急降下しています、火災も発生しています。非常事態であり緊急着陸を要請します!」"We have an explosion aboard, we are descending immediately! ... We have fire on board! We are requesting immediate landing! We have a total emergency!"と管制塔に連絡した。
機長は空港へ引き返そうとしたが、そこで第二の爆発が発生した。この時機体後部から煙を出しながら雲の下を飛行している姿が目撃された。もはや無事に着陸するのは不可能と判断したかのように、455便は大きく右旋回しながら海岸から離れていった。そして空港から8Km、ブリッジタウンの沖合16Km離れたカリブ海に機首を上げた状態で突入してしまった。
この事故で乗員25名と乗客48名の計73名全員が死亡した。455便の搭乗者の国籍はキューバ57名、ガイアナ11名、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)5名であった。また乗客にはキューバのフェンシングのナショナルチームのメンバー24名が含まれており多くは10代であった。またキューバ政府の高官数名も含まれていた。なおガイアナ人は医学生と外交官夫妻、朝鮮人は北朝鮮政府高官とカメラマンであったという。
455便が墜落したのは、爆発で発生した火災で機内で有毒ガスが発生し、操縦乗員が意識を失ったためと推測されている。
事故の真相
爆発が機体後部で発生したことから当初からテロによるものとみられていた。被疑者としてキューバのカストロ政権に反発する反カストロ主義者が考えられた。455便に偽名で搭乗してバルバドスで降りた2名のベネズエラ人をトリニダード当局が逮捕し、その自供から事件の首謀者としてルイス・ポサダ・カリレスら2名が逮捕された。
事件の裁判はベネズエラで行われたが、1980年9月に同国の軍事裁判所は「証拠不十分」を事由に無罪を宣告した。これは不可解なことにバルバドスの捜査当局が収集した証拠資料の提出が遅れた上に、翻訳(バルバドスの公用語は英語、ベネズエラの公用語はスペイン語)されなかったのが原因であるという。しかしルイス・ポサダ・カリレスが首謀者であったことが、2007年5月に機密指定が解除されたCIAおよびFBIの公文書において判明している。この中でポサダがCIAに長年協力しており、クバーナ航空455便を爆破した実行犯の一員であると断言されている[1]。
ポサダはその後もキューバに対するテロ活動を行っていたとされ、キューバの観光産業への打撃を狙った1997年のハバナにおける連続爆弾テロの時も、ベネズエラに滞在していた。しかし2005年4月になってアメリカ・マイアミへ逃走し、政治亡命を申請した。その際に、彼の顧問弁護士がアメリカ合衆国連邦政府に保護される要件として、彼がアメリカのために対外破壊工作活動に協力してきた点を強調した。そのためか2007年5月8日、エルパソ連邦地裁は、尋問に不備があったとしてポサダに対する全ての訴状を却下し、彼を釈放した。そのためベネズエラ、キューバ両国の外相は、テロ活動に対する「アメリカの二重基準」を厳しく批判した[2]。ポサダはその後も逮捕されることなく、2018年5月23日にマイアミで死去した。
1998年、カストロがバルバドスを訪れた際にバルバドスの西海岸で事件の慰霊碑の除幕式が行われた。
引用
- ^ LUIS POSADA CARRILES: The Declassified Record(The National Security Archive, the George Washington University、英語)
- ^ 「米政府は『二重基準』ベネズエラとキューバが批判」 しんぶん赤旗
外部リンク
- Aviation Safety Network for Cubana 455
- PDF Report on the Judicial Proceedings (in Spanish)
- 1998 Barbados Monument located in the parish of Saint James, Barbados|Saint James, dedicated to the victims of the aircraft bombing.
- Picture of the airplane
関連項目
- キューバ系アメリカ人財団:1997年のハバナにおける連続爆弾テロを資金面で支援したとされるキューバの反体制組織
クバーナ航空455便爆破事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 03:28 UTC 版)
「ルイス・ポサダ・カリレス」の記事における「クバーナ航空455便爆破事件」の解説
クバーナ航空455便は、バルバドス発トリニダード経由キューバ行きであった。1976年10月6日、ダグラス DC-8型機に仕掛けられたダイナマイトまたはC-4とみられる2個の時限爆弾が爆発。中米カリブ選手権で金メダルを獲得したばかりのフェンシングのキューバ選手団24名を含む、73名の乗客と乗組員5名全員が死亡した。キューバやベネズエラ、アメリカから派遣された調査員は、ベネズエラ人2名(フレディ・ルーゴ、エルナン・リカルド・ロザノ)を実行犯と特定。両者はベネズエラの私立探偵事務所でポサダに雇われており、その後犯行に及んだ。2人の自白から1週間後、事件を計画した容疑でルイス・ポサダとオルランド・ボッシュを逮捕、ベネズエラで収監された。機密解除されたFBIとCIAの報告書によると、両局が事件発生の数日以内にポサダの関与を疑っていたという。また、マイアミ市民数名とボッシュが事件直前にドミニカ共和国で落ち合い、キューバへのテロを実行する旨の声明文を出したことも発覚している。1976年10月13日付のCIA機密解除文書には、当時カラカスにいたポサダが、事件の数日前に「我々はキューバの定期旅客機を攻撃する。(中略)オルランドが詳細を握っている」と話した事実を引用。 なお、ポサダは事件への関与を否定しており、「唯一の目的はキューバの自由のために闘うことであった」と主張している。軍事法廷により無罪を勝ち取ったものの、この判決は民事法廷で覆され、裁判に掛けられることとなった。1977年、フレディ・ルーゴと共に脱獄し、チリ当局に自首。即座に身柄が引き渡され、1985年に再び脱獄するまでの8年間にわたり有罪判決を受けることは無かった。脱獄には巨額の賄賂と「ラモン・メディナ」という偽名を用いたと言われている。ポサダによると、脱獄は当時ロナルド・レーガン政権とも近しい関係にあった、CANF総裁を務めていたホルヘ・マス・カノサが計画し、資金提供を行ったという。マスは当時、エルサルバドルでホワイトハウスが実行していた作戦(エルサルバドル内戦)に参加、ポサダに同地への移住を手助けしている。
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航空機テロ |
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