キオッジャの戦い
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キオッジャの海戦 (イタリア語:Battaglia di Chioggia)は、キオッジャ戦争終盤の1380年6月24日までにヴェネツィア・ラグーン南端のキオッジャで行われた、ヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国との間の戦い。[4]
- ^ Sanderson, Michael W. B. Sea Battles: a Reference Guide. 1st American ed. Middletown, Conn., Wesleyan University Press, 1975, p. 140.
- ^ Lane, Frederic Chapin. Venice, a Maritime Republic. Baltimore, Johns Hopkins University Press, 1973, pp. 193–194
- ^ a b c Sanderson, Michael W. B. Sea Battles: a Reference Guide. 1st American ed. Middletown, Conn., Wesleyan University Press, 1975, p. 51.
- ^ a b c "Carlo Zeno".
- ^ a b c d e Pemsel, Helmut. A History of War At Sea : an Atlas and Chronology of Conflict At Sea From Earliest Times to the Present. [1st English language ed., fully rev.] [Annapolis, Md.]: Naval Institute Press, 1977.
- ^ a b c d e Hattendorf, John B, and Richard W. Unger.
- ^ a b c d e Guilmartin, John Francis.
- ^ a b c McNeill, William Hardy.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t Lane, Frederic C. VENICE, A MARITIME REPUBLIC.
- ^ Dotson, John E. "Merchant and Naval Influences on Galley Design." Ed. Craig L. Symonds. New Aspects of Naval History : Selected Papers Presented At the Fourth Naval History Symposium, United States Naval Academy, 25–26 October 1979 (1981): 20-31. Print.
- ^ Reynolds, Clark G. Navies In History. Annapolis, Md.: Naval Institute Press, 1998.
- ^ Braudel, The Perspective of the World (1984), p. 118
- ^ Potter, E. B, Roger Fredland, and Henry Hitch Adams. Sea Power : a Naval History. 2nd ed. Annapolis, Md.: Naval Institute Press, 1981.
- ^ Brockey, Liam Matthew.
- 1 キオッジャの戦いとは
- 2 キオッジャの戦いの概要
- 3 軍事技術
キオッジャの戦い(1379年8月 – 1380年6月)
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「キオッジャ戦争」の記事における「キオッジャの戦い(1379年8月 – 1380年6月)」の解説
「キオッジャの戦い」も参照 この広範囲にわたる戦いは、3000人のヴェネツィア兵が立てこもった街キオッジャの名がつけられている。ハンガリー軍とパドヴァ軍の合流で力を得たジェノヴァ軍はラグーンの南方から奇襲をかけ、運河に突入した。連合軍は8月16日にキオッジャを占領し、8月半ばまでには連合軍によるヴェネツィア包囲が完成した。 ヴェネツィア元老院は講和を求めたが、ジェノヴァ司令官ピエトロ・ドシアから「聖マルコの馬にハミと頭絡をかけるまでは平和は無い」と告げられたため、ヴェネツィア人は最後まで抵抗することに決めた。 民衆は投獄されていたヴェットール・ピサニを釈放させた。 1379年12月22日、ヴェネツィアのドージェアンドレア・コンタリーニとピサニは夜陰に紛れてキオッジャを封鎖し、ここを占領していたパドヴァ軍とジェノヴァ軍の連絡を絶った。この陽動作戦の後、ヴェネツィア軍はあらゆる運河に障害物を沈め、ジェノヴァ軍がキオッジャのクルドサックから逃れるのを阻止した。 1380年1月1日、地中海で活動していたカーロ・ジーノがヴェネツィアのガレー艦隊の主力を率いてブロンドロ島に現れた。彼はティレニア海やエーゲ海を荒らしまわってベイルートやロードス島に拠点を置くジェノヴァの交易網を脅かしていたが、情報伝達や艦隊集結に手間取り、ヴェネツィア本国での戦闘に遅参したのだった。カーロ・ジーノの艦隊の参戦により、今やキオッジャで包囲されているのはジェノヴァ軍の側となった。 今やヴェネツィア軍は息を吹き返した。激しい攻撃にさらされるジェノヴァ軍にとって、本国からの救援が最後の頼みの綱だった。数か月にわたる包囲戦の中で、ジェノヴァ軍は運河のバリケードを取り払おうとしたりヴェネツィア側の傭兵を破ろうとしたりしたが、いずれもヴェネツィア軍に阻まれた。またジェノヴァ海軍の大型船は、浅く航路が複雑なヴェネツィアの浅瀬の中で身動きが取れなくなっていた。こうした状況を作った後、ピサニは夜襲を仕掛け、石を満載した船を、ヴェネツィア本島に向かう運河のみならずキオッジャやブロンドロから外海へ出る運河にも沈めた。これにより、もはやジェノヴァ軍の自力での脱出は不可能になった。さらにピサニはアドリア海にガレー船団を停泊させ、数か月にわたって外から救援を試みるジェノヴァ海軍を遮断し続けた。この作戦はヴェネツィア人にも多大な苦労を強いるものだったが、ドージェのアンドレア・コンタリーニを始めとした貴族たちは「キオッジャを奪回するまではヴェネツィアに帰らない」と誓いを立てて海軍司令官の労苦を共に背負い、市民に範を示した。 この戦いでヴェネツィアは、水陸両用作戦への支援やジェノヴァ艦隊との戦闘のために初めて大砲を艦載して戦闘に使用した。 ジェノヴァ本国でも、既に海に出ていた船舶を艤装していく負担が大きくなってきていた。またその時期も遅れがちになり、マテオ・マルッフォがジェノヴァの援軍を率いてブロンドロに現れた時にはもう1380年5月12日になっていた。この時すでにブロンドロ島はヴェネツィアの手に落ちており、要塞化した港も陥落していた。そのためマルッフォの艦隊は何も手立てを打つことが出来ず、6月24日にキオッジャのジェノヴァ軍は降伏した。 同日にヴェネツィアのラグーンで行われたキオッジャの海戦は、ヴェネツィアの勝利に終わった。ジェノヴァは兵糧攻めに屈して降伏し、ヴェネツィアはアドリア海の制海権を取り戻した。
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