カデットC(1973年-1979年)
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「オペル・カデット」の記事における「カデットC(1973年-1979年)」の解説
4代目はGMの「共通のプラットフォームから各国の国情に合った製品を派生させる」という戦略、「グローバルカー(世界戦略車)構想」の一環として開発され、GM「Tカー」となった。このカデットCを元にしていすゞ・ジェミニ(1974年・日本)・ヴォクスホール・シェヴェット(1975年・イギリス)・シヴォレー・シェヴェット(1973年・ブラジル/1976年・アメリカ)などの兄弟車が各国で開発された。スタイルはマンタ、アスコナやレコルトのデザインを監督したチャック・ジョーダンの後任のデイヴィッド・ホールズが率いるデザインチームによるもので、既存モデルとの近似性を保ったウエストラインの低いプレーンで美しいものであった。 車体形式は当初2・4ドアセダン・2ドアクーペ・5ドアが中止されて3ドアのみとなったキャラバンの4種類。エンジンは旧型からキャリーオーバーのOHV1,196cc52馬力/S仕様60馬力・廉価版用993cc48馬力が搭載された。1975年には3ドアハッチバック版「シティ」、マンタGT/Eと同じ1,897cc・105馬力エンジンを搭載した「ラリー・カデット」の後継版である2ドアクーペ「GT/E」、1976年には屋根と後窓が折り畳める2ドアカブリオレ「エアロ」、1977年にはGT/Eの発展版である1,979cc115PSのGT/E2、その装備を簡素化した「オペル・ラリー」などの車種が追加された。1977年にはフロント部分が変更され、レコルトやアスコナ同様、ウィンカーがヘッドライト両端に取り付けられた。 イギリスでは前記の通り、ヴィヴァの下位モデルとしてヴォクスホール・シェヴェットが1975年に登場した。当初はドイツ版にない3ドアハッチバック一種類で、ノーズも別のデザインで印象を大きく変えていたが、同年末には2・4ドアセダンも登場し、設計年次の古いヴィヴァに代わってヴォクスホールの主力大衆車に育ち、次期モデルで英独の車種一元化が行われる伏線となる。 WRCでの参戦はオペル・ワークスである「GM・ユーロハンドラー」チームと各国のディーラーチームがセミワークスとして各国の仕様で75年サンレモ・ラリーにグループ4仕様から投入される。ドライバーにワルター・ロール、アンダー・クーラング、ラウノ・アルトーネンらを起用、従来のアスコナAと入れ替わりにカデットGT/Eで参戦する。ホモロゲーション・モデルとしては、GT/E2ベース150hpとするグループ1仕様、GT/EのエンジンをさらにDOHC8バルブ207hpのグループ2仕様、DOHC16バルブ240hpであるグループ4仕様が作られた。 サンレモではミッション・トラブルによりリタイアに終わるも翌年から、グループ1・2・4へ数多く投入。1977年スウェディッシュ・ラリーでの2位が最高位となり1978年まで投入され続けた。1979年はホモロゲーションの変更により16バルブヘッドのグループ4仕様は参戦できなくなり、ワークス活動はアスコナBにスイッチされたが、オペル・ワークス以外ではベーシックなラリー車として各国のプライベーターに愛用され続けた。 「シェヴェットHS」のラリー仕様はヴォクスホールと英ブラインスタイン・レーシングとで開発され、16バルブツインカムエンジンがラリー向けに改良されると英ケンブリッジ近くのテストコースとを開発の拠点とし、フィンランドのペンティ・アイリッカラの手で熟成、1976年11月にWRCのグループ4でエントリー。 デビューから1年足らずでステージクラス優勝となるが、1000湖・ラリーでは活躍できなかったと共にWRCではインパクトを与える前にメカニカルトラブルが多発してしまう結果も頻発した。1978年には「シェヴェットHSR」へ進化。ラッセル・ブルックルスのフォード・エスコートRSとが1980年代まで数秒差単位の選手権争いを繰り広げた。 セダン シティ エアロ 後期型セダン GT/E GT/E WRC Gr.4 クーラング車 ヴォクスホール・シェヴェットHSR
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