カデット党員として
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「フョードル・ココシキン」の記事における「カデット党員として」の解説
1903年が始まると、ココシキンはますます深く自由主義政治運動に関わるようになった。ベセーダ(英語版)、地方立憲主義者同盟[訳語疑問点]、解放同盟(ロシア語版、英語版)といったいくつかの合法あるいは半合法の団体に加わり、優れた演説家であるという評判を得た。ココシキンは立憲民主党 (カデット)の結党時のメンバーの一人となり、同党の共同創設者となった。 1906年に彼は第一国会(ドゥーマ)に選出され、その副議長となった。第一国会における彼の最も著名な業績は、間違いなく、すべての国民が平等であるという原則と市民権の尊重を規定する法案の提出であり、これは151人の国会議員の仲間に支持された。 1907年に国会が解散させられた後、ココシキンは「ヴィボルグの檄」を共同で起草し、それに署名した。そのため、すぐに彼は逮捕され、獄中で3ヶ月を過ごすことになった。「ヴィボルグの檄」に署名した他のすべての人物と同様、ココシキンは国会の選挙権を剥奪された。同じ年に、カデットの他の数人のメンバーとともに、ココシキンはモスクワの貴族会議から追放された。 1907年の始まりとともに、ココシキンは、『ルースキエ・ヴェードモスチ(ロシア語版、英語版)』紙の積極的な寄稿者の一人となり、議会制、ナショナル・アイデンティティ、古儀式派の状況といった幅広い主題に関する記事を発表した。ココシキンは国法および国政の諸問題についてのカデット内の第一人者であった。 2月革命の後、ココシキンは臨時政府の法制審議会議長となった。そして、彼は憲法制定会議(ロシア語版、英語版)選挙規定起草特別委員会の委員長となった。臨時政府の第二次連立政府においては、ココシキンは会計監査院長となり、政府内のカデットの指導者となった。 ボリシェビキが権力の座についた後、ココシキンは憲法制定会議選挙の準備に積極的に関わるようになり、党大会や会議で演説をした。彼は憲法制定会議の議員として選出され、そして、1917年12月10日にペトログラードに到着した。これは、12月11日に行われることとなっている憲法制定会議の開会式で演説をするためであった。ペトログラードへ行くことをやめるように忠告を試みた友人に対し、ココシキンは、こう答えたという。「私を選挙で選んでくれた人々が私を送る場所に、私は行かないわけにはいかない。行かなければ、私が人生すべてを捧げてきたものを裏切ることになるんだ」。
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