カディス湾襲撃(1587年)
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「ボナヴェンチャー (ガレオン)」の記事における「カディス湾襲撃(1587年)」の解説
1587年2月メアリー・ステュアートが処刑されると、フェリペ2世はこれをイングランド侵攻の好機と判断し、海軍の出撃準備を始めた。ボナヴェンチャーは当時フランシス・ドレークの指揮下にあり、このイスパニア海軍の侵攻を阻止ないし遅延させるために送り込まれた艦隊の旗艦であった。この艦隊はおよそ26の船からなり、ボナヴェンチャー以外にもHMSゴールデンライオン(英語版)、HMSドレッドノート(英語版)、HMSレインボー(英語版)という3隻の王国所有艦が含まれていた。その他には勅許会社であるレヴァント会社(英語版)所有の大型帆船が3隻、150–200トン規模の戦艦が7隻、小型艇が11ないし12隻あった。エリザベス1世からは以下のような勅令が下された。 "to prevent the joining together of the King of Spain's fleet out of their different ports. To keep victuals from them. To follow them in case they should come out towards England or Ireland. To cut off as many of them as he could, and prevent their landing. To set upon the West Indian ships as they came or went."(一、他の港にいるイスパニア王の軍が集結せぬよう妨害せよ。一、敵方より食料を奪取せよ。一、やつばらがイングランド・アイルランド方面へ向け出航せんとする気配ある時は、これを追跡せよ。一、敵軍を徹底的に寸断し、上陸を阻止せよ。一、西インドの艦隊あらば出船入船の別を問わず攻撃せよ。) 女王は直後に心変わりしもう少し攻撃的でない命令内容に改めさせたが、ドレークは新たな命令書が到達する前の1587年4月12日にイングランドを出立してしまい、当初の指示通りの行動をとった。カディス湾に船舶が集められていると聞いたドレークは、当地にてこれら艦船を拿捕する事を決めた。17日間かけてカディス湾付近に辿り着いた彼等は、湾の内外に無数の敵艦が停泊しているのを発見した。副官のウィリアム・ボロー(英語版)と少しばかりの協議を行った結果、ドレークは明朝まで待機すべきとの意見を却下し、艦隊を突入させるよう決断した。イスパニア側はベドロ・ブラヴォ・デ・アクーニャ(英語版)麾下のガレー船小隊が出撃可能な状態であったため、湾内全体に展開してドレーク艦隊の迎撃に向かった。しかし彼等がイングランド船へ呼びかけ可能な距離まで近づく前にボナヴェンチャー及びその僚船達が砲撃を開始、イスパニアのガレオン船に向かって砲弾を叩き込んだ。4隻のイングランド王国軍船は各々がペドロ艦隊全体のそれよりも高い火力を備えており、イスパニア側は友軍艦船の出撃準備が整うまでの時間稼ぎに徹することを強いられた。しかし程なくして彼等は退けられ、湾内はドレーク艦隊により掌握された。 翌月にかけて、艦隊はイベリア地域リスボンとサン・ヴィセンテ岬間の沿岸を行き来し、リスボンに送り込まれていた敵海軍の補給を断った。補給物資には大量の樽板が含まれており、ドレークの私的な見積もりでは、これは糧食や水を25,000トン以上も輸送可能な分量であった。
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