カディマ結成へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 08:59 UTC 版)
シャロンは労働党と連立を組み、ペレスは2001年-2002年には外務大臣を務めた。同時多発テロで世界のパレスチナに対する注目がそれた時、右派出身の閣僚たちはアラファトの政治生命を断つべきだと主張した。ペレスはそれに反論し、シャロンは強硬論を退けつつ自治政府の弱体化を指示した。ペレスはアラファトに電話し「私がいつまで制止できるか分からない」と伝えた。 2003年の総選挙でシャロンは勝利し、ペレスは労働党と共に連立政権を離れた。2004年10月、シャロンは方針転換をしてガザ地区全入植地の撤退(ガザ撤退)を宣言した。これを受けて労働党は2005年1月に再び連立に加わり、党首だったペレスは特別副首相となる。しかし、2005年の党首選でアミール・ペレツ(en:Amir Peretz)に破れてしまう。 ガザ撤退を巡ってシャロンとネタニヤフの党内抗争が激化し、党首であるにも拘らず、シャロンがエフード・オルメルトやツィッピー・リヴニらとともにリクードを離党した。11月、ペレスらも労働党を離党し、シャロンらと合流して「領土の譲歩」と「非武装のパレスチナ国家承認」を基本方針とする中道政党カディマを結成する。カディマは高い人気を獲得するが、シャロンが脳卒中により意識不明となり、オルメルトが首相と党首の地位を引き継ぐ。
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