カディス暗号機関
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 19:52 UTC 版)
「マリアン・レイェフスキ」の記事における「カディス暗号機関」の解説
1940年9月ポーランドの暗号家グループは南部フランスに戻った。そこはドイツに占領されている地域ではなく、ヴィシー政権が掌握している地域だった。レイェフスキはリセ(当時のリセは中高一貫校)のフランス語教員ピエール・ラナウドとしてナントに留まった。ユゼから遠くないところにあるフゼ城に無線局を設置し、暗号名をカディスという暗号解読機関が設けられ、10月1日から活動が開始された。レイェフスキとその仲間の課題は、ドイツの電信に使用されていた暗号を破ることと、無線で使用されていたスイスのエニグマを破ることであった。実際には、カディス機関ではエニグマ以外の暗号解読にもっぱら従事していた。 1941年11月初め、レイェフスキとジガルスキはポーランドの暗号機ラチダを破ってみるように要請を受けた。戦前にポーランド暗号局が開発した暗号機で、カディス機関とロンドンのポーランド軍参謀本部との通信に使用していたのである。エニグマに似て暗号化ローターを備えた暗号機(ただしプラグボードは備えていない)であるが、エニグマ暗号解読作業が優先していたので、それ以前にラチダ暗号を暗号専門家に評価してもらうことはなかったのである。驚いたことにレイェフスキとジガルスキは簡単にラチダ暗号を解いてしまった。ラチダで暗号化された文章の最初を解読するのに2、3時間しかかからず、同じように続きも解読したのである。ドイツ軍の情報部によってラチダが破られる可能性はわずかだとはいうものの、グヴィドン・ランゲル大佐はカディス機関での使用をやめるように進言した。 アルジェリアには、マクシミリアン・チェンシュキが指揮するカディス暗号機関の支部が残されていた。2、3ヶ月ごとに双方の暗号家はフランスとアルジェリアの間を行き来していた。1月9日移動の最中、乗っていたラモリシエール号が嵐のため沈没し、カディス機関の3人のポーランド人とフランスの将校が亡くなり、そのうちの一人がレイェフスキのグループで最も若いイェジ・ルジツキであった。 1942年になると電波の方向探知装置を備えたドイツの、無線探索部隊が反独無線局を探索しに現れるようになった。それでカディス機関の通信も次第に危険になってきたのである。11月6日アンテナを備えた車が一台、通信中にカディス機関の門のところにやってきた。敷地内に入ってきたわけではなかったが、隣の農家を詳しく調べていったので脱出を決意し、11月9日に脱出した。その3日後、ドイツの部隊はカディス機関の敷地内に入ってきた。
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