アベイ座
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アベイ座 (アベイざ、The Abbey Theatre、アイルランド語:Amharclann na Mainistreach)は、アイルランド国立劇場(Amharclann Náisiúnta na hÉireann)として知られる、アイルランド・ダブリンの劇場。日本語ではアビー座、アベイ・シアター、アビー・シアターなどとも表記される。1904年12月27日に第一回公演が行われた。1951年7月の火事で原型の建物を焼失したが、再建して現在も上演を続けている。アベイ座は、英語圏の劇場で初めて国の補助金を受けた劇場である。
1903年に、イギリス人資産家のアニー・ホーニマンの資金援助を得て、イギリスの支配に対抗しアイルランド文化・アイルランド演劇の独自性を確立しようとしていたアイルランド人のウィリアム・バトラー・イェイツ、オーガスタ・グレゴリー、ショーン・オケーシー、ジョン・ミリントン・シングら詩人・劇作家、支援者が中心となって劇場を設立。劇団メンバーが上演作品を制作しており、アイルランド文芸復興運動、アイルランド演劇運動の最前線となった[1]。アベイ座はアイルランド演劇と20世紀の俳優たちの養成所であった。加えて、外国公演も行い北米からの観客も呼び込むことから、アイルランド観光産業の牽引役ともなっている。
1902年にイェイツを会長として創立されたアイルランド国民演劇協会が母体である。紅茶商として成功したホーニマン家の一員で、演劇の支援者だったアニー・ホーニマンとイェイツは、魔術結社黄金の夜明け団の団員で、ホーニマンは彼の才能を高く評価し、(アイルランド民族主義は嫌っていたが)彼の演劇活動を支援をしたいと考えており、自身で行ったタロット占いの読み解きも参考し、彼が自由に活動できる場を用意することを決めた[1]。「もしこの劇団が今後一年以上存続するならば」という条件で、本拠地のない彼らに劇場を一つ提供しようと申し出て、1903年に彼女が提供した1,300ポンドの資金を元に、イェイツ、グレゴリー、ジョージ・ウィリアム・ラッセル、エドワード・マーティン、シングらが集まりアイルランド国立演劇協会を設立。ローワー・アベイ街にあった寄席劇場と、その隣にあった空いた建物を買い取って改装し、アベイ座と名付けた。1904年12月27日の初演では、イェイツの『バレの磯』、グレゴリーの『うわさのひろまり』が上演された。能に影響を受けた詩人イェイツが主導するアベイ座は挑戦的な劇場で、経営的には厳しかったが、次第に成功を収めるようになっていき、劇作家のための劇場という名声も獲得した。
1951年の失火で劇場を焼失後、本拠地を古いクイーン座へ移して1966年まで活動。1961年にかつてのアベイ座の焼け跡が取り壊され、1963年から再建を開始。当時の大統領エイモン・デ・ヴァレラが劇場の基礎石を置いた。1966年に新劇場完成。
焼失前の旧アベイ座の姿はキングス・カレッジ・ロンドン、ダブリンのトリニティ・カレッジ、及びダブリンのデジタルグラフィック企業NOHOの協働作業による学術プロジェクトAbbey Theatre, 1904によってデジタル復元されており、3D画像で内装を見ることができる。
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
- Abbey Theatre homepage.
- The Abbey and the genius of Irish theatre.
- Denis Johnston and The Old Lady Says 'No'
- Dublin's Abbey in centenary crisis —Guardian Unlimited.
- Barnes to stay on as Abbey Theatre director — RTÉ News
- Arts Council voices concern over Abbey — RTÉ News
- Resignations — RTÉ News.
- Abbey Theatre, 1904
アベイ座
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「ショーン・オケーシー」の記事における「アベイ座」の解説
オケーシーの最初に採用された演劇「革命戦士の影」がアベイ座において1923年に上演された。これは、劇場と劇作家の両方に有益となるはずの関係の始まりであったが、後味が苦いものに終わった。 この演劇は、ダブリンのスラムやその住民についての政治の影響を革新的に扱っており、マウントジョイ・スクエアにおける設定となっていると解されていた。ここは、1916年のイースター蜂起の期間に彼が生活していたところである。これに「ジュノーと孔雀」(1924年)と「鋤と星(すきとほし)」(1926年)が続いた。前者がこの街の労働者階級の貧民についてのアイルランド内戦の影響を扱う一方、後者は、1916年におけるイースター蜂起の頃のダブリンという設定になっている。両演劇は、美辞麗句とアイルランドの愛国心の危険性を、借家の生活、自己欺瞞、サバイバルと共に生々しく扱った。これらは悲喜劇であり、これらの中で暴力的な死が安堵感をもたらす。「ジュノーと孔雀」におけるジャック・ボイルやジョクサー・ダリーのような勇ましい虚勢をはるキャラクターが荒れ狂い、「鋤と星」におけるジュノー自身もしくベッシー・バージェスが英雄的な回復力を示す。「ジュノーと孔雀」は、アルフレッド・ヒッチコック監督によって映画になった。 「鋤と星」は、アベイ座の聴衆による反応が芳しくなく、ジョン・ミリントン・シングの「西国の人気男(The Playboy of the Western World)」(1907年)を歓迎した騒動を思い出させるシーンに終わった。ショーの第4夜めについての騒動が報告されている。彼の性や信仰の記述には、役者にも抵抗する者がいて、彼らの台詞をしゃべることを拒んだ。最大規模の騒動が起きた。その一部は「この演劇が提起されているテーマについての攻撃であると考えられたこと」に起因し、一部は「第2幕における売春婦のアニメーション化された外観に反対する抗議」に起因する。ウィリアム・バトラー・イェイツが手を加えて、聴衆自身を恥じる者として描写した。演劇の台詞は、その前の週と比べて実のあるものとなった。オケーシーは彼の仕事を諦め、フルタイムの作家となった。この事件以降、この演劇はアベイ座に来場する人々の大部分には好評であったものの、リアム・オフラエティ、オースティン・クラークおよびF・R・ヒギンズは、報道の中で、この演劇に対する攻撃を始めた。オケーシーは、「これはイェイツに対する攻撃である」と信じていたので、彼らはイェイツを叱りつけるためにオケーシーの演劇を使っていた。1952年、彼は、テレサ・デーヴィーによって「ワイルド・ギース」と呼ばれるアイルランドの演劇に登場した。この中で彼は、ファーザー・ライアンの役を演じた。オケーシーは、アベイ座における無数の作品に参画していた。これらは、アベイ・アーカイブにある。
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