おまきと正眼寺
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「正眼寺 (南魚沼市)」の記事における「おまきと正眼寺」の解説
正眼寺は当初、大槇(おまき)と呼ばれる欅の大樹のもとに開創された。地域のシンボルとして愛され、明治22年(1889年)に発足した大巻村の地名の由来になったといい、現在[いつ?]においても地区名として残っている。 大正12年(1923年)駒形繁継編纂の「大巻霊木寒大神由来」には次のように語られている。 寺尾村黒澤の原、正眼寺の前には欅の大樹があった。周囲が5丈(約15m)余りの大木で、この木の下を村人たちは集会所に使っていたという。いつの頃か、ある村人の夢告に一人の美しい婦人があらわれて、「我は黒澤の原にある欅の大樹おまきと申す。」と告げたところで、夢は醒めてしまったといい、それ以後、その欅の大樹を「おまき」の木と呼ぶようになったと伝えられる。この大樹は実に不思議な樹であって、郡内でも稀代な霊木であった。 承和2年(835年)に、この樹は霊女となって伊勢参宮をしたという。この時は、四十日の「おなし」、大杉の「おすぎ」と三人連れであったといわれ、「三才女のお伊勢参り」として語り伝えられている。伊勢に参って御師に越後国魚沼郡寺尾村に住む「まき」であると名のっておいたので、御師の一志太夫によって毎年大祓の礼が行われ、樹の西に穴を掘って納めるられることが明治になるまで続けられたという。 長元7戌年(1034年)8月、大風によって大きな被害を被る。 建久4年(1193年)、源頼朝公が冨士のまき狩りをした際、大巻組として人夫その他を仰せつけられたいう。 明治20年(1887年)1月15日、同郡今町村某氏の夢告があり、「我は、寺尾正眼寺地内に住する大まき霊木寒大神である。2月15日に注連を持って参詣せよ。然らば福を授けよう。その福とは、まきの枝にかかる黄色の狩衣と、東の方へのびた三又の枝である。これらを以て諸病を呪えば、あらたかな感応があるであろう。あた、我を大巻寒大神として祭るべし。」と。故に宮を建てて祭ったという。 大正元年(1912年)駒形繁継算士ら3人が大槇を調査した。結果、長さ13間2尺6寸 (約24m)、周囲3丈8尺 (約12m)、葉数9億4400万5513枚だった。 大正7年(1918年)1月3日未明、雪嵐のため、西方の大枝およそ半分が折落、さらに大正11年(1922年)12月28日夜雪のため、東南方の枝全てが折落、老木にて危険となったので翌年伐採した。年輪から樹齢約2675年だった。 なお、伐採した大槇はその後正眼寺山門や鐘楼の建材として使われ、山門には大巻寒大神の宮を建立し、山門と地域を鎮護している。 説話に出てくる四十日の「おなし」は、昭和34年(1959年)9月26日の伊勢湾台風で倒木したという。大杉の「おすぎ」は時期不明ながら伐採されたという。伝説では大同年間(806〜810年)に京都から買主が来て「おすぎ」を切り倒そうとしたが、一旦切っても翌日には元に戻ってしまっていた。何回切っても元に戻るので夜こっそり見ていたら「おまき」と「おなし」が切りくずを貼り合わせて元に戻していた。そこで木こり達は相談し、切った切りくずをその日のうちに燃やしてしまうことにした。「おまき」も「おなし」も切りくずが灰になってしまっては元に貼り合わせることができず、とうとう「おすぎ」は切り倒されてしまった。魚野川まで運んでいかだを組み川を下ったが、堀之内町和南津まで下ったところで渦巻きに巻き込まれて買主人夫共々沈んでしまったという。現在[いつ?]2代目がある。 明治20年の夢告には後日談があり、「おまき」に行ってみるとわらびの新芽の三つ又に古銭が1枚乗っており、そこを掘ったところ古銭が12kgと金比羅様の像が出土したという。
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