あや船の派遣とは? わかりやすく解説

あや船の派遣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 01:32 UTC 版)

あや船一件」の記事における「あや船の派遣」の解説

島津氏印判制度遵守要請対し琉球側は今後友好関係をますます連綿とすることを再確認したが、印判制度については特に言及避けた貿易民間勢力に頼る琉球島津氏印判制度によって民間商人渡航制限されることは大きな問題であり、島津氏要請容易に是認することはできなかった。 1573年三司官だった名護氏島津氏老中伊集院氏書状送った名護氏本書状が私的な関係に基づくものとしたうえで島津氏を「大邦」、琉球を「陋国(小国)」と呼んで下手に出つつ親密な関係によって交際することが重要であるとしながらも、今後印判制度問題については名護伊集院間での外交ルートに限るとした。 琉球の対応に対し納得できなかった島津氏1574年琉球対し近ごろ琉球違反している旧例条々(「近来違背旧例条々」)を書面突きつけ先の非を改めなければ両者の関係悪化するだろうと警告した。これに対し琉球尚永新たに即位したことで国内混乱していたことを理由回答延期していたと述べ使節団島津義久家督相続祝賀する目的派遣した。これによって島津氏要求通りあや船派遣された。 1575年3月27日あや船鹿児島到着した。しかし島津氏側は義久への祝賀儀礼前に先に琉球送られた「近来違背旧例条々とともに以下の件について個別回答するよう琉球使節団迫った島津氏発給印判状所持しない船を受け入れたこと 永禄13年1570年)に島津家使者岑)が琉球行った際、対応が疎略だったこと 今回進上物先例比べて少ないこと 岑の宿所三司官琉球重臣)が挨拶怠ったと 書受け渡し作法異なっていたこと 那覇において島津氏領内から渡航した国吉丸の脇船頭首を刎ねたこと 公式な使節ではない「飛脚使僧」で「私曲」を知らせたこと これに対し琉球側は鹿児島にいた使者たちで話し合い以下の回答仕立てた前国尚元崩御間もない時期で、諸事取り乱れていたためである 以後気を付け琉球先例調査する 確かに事実である 薩摩琉球では作法認識異なるようだ 脇船頭地元民の間でトラブルがあったため、船頭判断で脇船頭処罰されたので我々の関知するところではない 1に同じ この琉球側の回答丁寧な返事でないとみなした島津氏側は満足が得られなかった。岑は琉球島津氏今後疎略に扱わない誓約させた証文を取るべきとさえ言った島津義久進上物一切つき返し使者との謁見だけに留めるべきか、あるいは使者との謁見をも断るべきか逡巡した。しかし島津氏当主代始め開催することが通例となっていた犬追物行ったばかりであったため、代始めを祝うあや船突き返すのは政治的見地から得策ではない。それゆえ琉球側から譲歩引き出して使節受け入れる必要があった。また、琉球にとっても公式な使命帯びて鹿児島までやってきた一行進上物突き返され対面拒否されるのはマイナスであった琉球側は島津氏要求対す譲歩として、 各条返答琉球持ち帰って再度調査する 進上物不足分岑の要求受け入れて黄金三枚追加を示す とした。 これに対し島津義久はこの提案認め予定通り使者面会し進上物追加不要として寛大さ見せた。こうしてあや船一件は一応の解決見せたが、この一件以降島津氏次第琉球への圧力強めていった。

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