あや船の派遣
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島津氏の印判制度遵守の要請に対し、琉球側は今後の友好関係をますます連綿とすることを再確認したが、印判制度については特に言及を避けた。貿易を民間勢力に頼る琉球は島津氏の印判制度によって民間商人の渡航が制限されることは大きな問題であり、島津氏の要請を容易に是認することはできなかった。 1573年、三司官だった名護氏が島津氏老中伊集院氏に書状を送った。名護氏は本書状が私的な関係に基づくものとしたうえで島津氏を「大邦」、琉球を「陋国(小国)」と呼んで下手に出つつ親密な関係によって交際することが重要であるとしながらも、今後は印判制度問題については名護―伊集院間での外交ルートに限るとした。 琉球の対応に対し納得できなかった島津氏は1574年に琉球に対し、近ごろ琉球が違反している旧例の条々(「近来違背旧例の条々」)を書面で突きつけ、先の非を改めなければ両者の関係が悪化するだろうと警告した。これに対し琉球は尚永が新たに即位したことで国内が混乱していたことを理由に回答を延期していたと述べ、使節団を島津義久の家督相続を祝賀する目的で派遣した。これによって島津氏の要求通りあや船が派遣された。 1575年3月27日、あや船が鹿児島に到着した。しかし島津氏側は義久への祝賀儀礼の前に先に琉球へ送られた「近来違背旧例の条々」とともに以下の件について個別に回答するよう琉球の使節団に迫った。 島津氏発給の印判状を所持しない船を受け入れたこと 永禄13年(1570年)に島津家使者(雪岑)が琉球に行った際、対応が疎略だったこと 今回の進上物が先例と比べて少ないこと 雪岑の宿所に三司官(琉球の重臣)が挨拶を怠ったこと 書状受け渡しの作法が異なっていたこと 那覇において島津氏領内から渡航した国吉丸の脇船頭の首を刎ねたこと 公式な使節ではない「飛脚使僧」で「私曲」を知らせたこと これに対し琉球側は鹿児島にいた使者たちで話し合い以下の回答を仕立てた。 前国王尚元の崩御間もない時期で、諸事取り乱れていたためである 以後、気を付ける 琉球で先例を調査する 確かに事実である 薩摩と琉球では作法の認識が異なるようだ 脇船頭と地元民の間でトラブルがあったため、船頭の判断で脇船頭が処罰されたので我々の関知するところではない 1に同じ この琉球側の回答を丁寧な返事でないとみなした島津氏側は満足が得られなかった。雪岑は琉球が島津氏を今後疎略に扱わないと誓約させた証文を取るべきとさえ言った。島津義久は進上物を一切つき返し使者との謁見だけに留めるべきか、あるいは使者との謁見をも断るべきか逡巡した。しかし島津氏の当主代始めに開催することが通例となっていた犬追物を行ったばかりであったため、代始めを祝うあや船を突き返すのは政治的見地から得策ではない。それゆえ琉球側から譲歩を引き出して使節を受け入れる必要があった。また、琉球側にとっても公式な使命を帯びて鹿児島までやってきた一行が進上物を突き返され対面も拒否されるのはマイナスであった。 琉球側は島津氏の要求に対する譲歩として、 各条の返答は琉球に持ち帰って再度調査する 進上物の不足分は雪岑の要求を受け入れて黄金三枚の追加を示す とした。 これに対し島津義久はこの提案を認め予定通り使者と面会し、進上物の追加も不要として寛大さを見せた。こうしてあや船一件は一応の解決を見せたが、この一件以降島津氏は次第に琉球への圧力を強めていった。
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