『魔女の宅急便』~初監督
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「片渕須直」の記事における「『魔女の宅急便』~初監督」の解説
1988年、スタジオジブリに出向して『魔女の宅急便』に携わることになる。まず4月に当時アニメージュ編集部の副編集長だった鈴木敏夫から角野栄子の『魔女の宅急便』を監督として映画にまとめられるか検討して、可能であればラフな粗筋を書いて欲しいとの依頼が来た。鈴木とのやり取りの後にプロデューサー予定であった宮崎駿に企画を見せたところ全否定され、最終的にシナリオは宮崎が書くことになった。また宮崎の指示でスウェーデンへロケハンにも行った。主人公キキのキャラクターのデザインについては宮崎と片渕の間で意見が分かれており、宮崎はキキを『となりのトトロ』のメイ、あるいは後年の『千と千尋の神隠し』の千尋のようなはっちゃけた感じにしろと言っていたが、片渕は最終的な映画版のデザインとなる方を提示していた。その後も鈴木が実質的なプロデューサーとして宮崎の現場介入を防ぐなど、色々手を尽くしてくれていたのだが、最終的には「ここが乗り気でなければこの企画は成立しないことになる」という立場のスポンサー企業から、「当方としては『宮崎駿監督作品』以外に出資するつもりはない」とはっきり言われてしまい、鈴木と相談の上、片渕の方から身を引く形を取ることにした。鈴木からは「宮崎は『挫折』というものを描き得ないだろうからそこをやって欲しい」と言われていたが、意外にも宮崎が挫折感と屈折を正面にもってきたシナリオを完成させたので、片渕が参加せずとも作品自体の目的はクリアできそうになっていた。しかし、鈴木に「でも、あなたは作品の最後まで立ち会うべきだ」と強く言われ、演出補として現場に残ることになった。 1991年、虫プロダクションで劇場用アニメ映画『うしろの正面だあれ』の画面構成を務める。その後、虫プロを離れる。 1992年、『魔女の宅急便』の制作担当だった田中栄子が作ったSTUDIO 4℃に加わる。 その前後に『チエちゃん奮戦記 じゃりン子チエ』制作のために東京ムービーに加わったり、スタジオジブリに二度目の参加をしたりしている。ジブリでは『魔女の宅急便』の後から、それまでの作品ごとにフリーのスタッフを呼び集めるシステムからきちんとした会社組織に変わって新人社員の採用も始めており、その新人演出家と新人アニメーターの面倒を見てほしいという依頼であった。またジブリでは新人養成の仕事が終わって離れようとした時にそのまま社内に残って欲しいと慰留され、断っている。 1993年、色々な出稼ぎ仕事を一段落させ、STUDIO 4℃に戻って『アリーテ姫』の制作をスタートさせようとするが、そのSTUDIO 4℃が解散になってしまう。もともと『魔女の宅急便』のスタッフの何人かが集まってはじめた寄り合い所帯のようなスタジオだったが、それぞれの道を進むために別れることになった。片渕は新たに会社組織としてスタートしたSTUDIO 4℃に合流し、大友克洋のオムニバス映画『MEMORIES』の制作に参加する。 1995年、虫プロ時代の『うしろの正面だあれ』の仕事で注目したというプロデューサーの丸山正雄に声をかけられ、マッドハウスの仕事を手伝うようになる。 1996年、日本アニメーション制作の『名犬ラッシー』で初監督。この当時、日本アニメーションのスタジオ内にも片渕の机が設けられていた。 1998年、アニドウ・フィルムの短編映画『この星の上に』を監督。ザグレブ国際アニメーション映画祭に入選し、1999年のアヌシー国際アニメーション映画祭で特別上映される。
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