『老人と海』を取り巻く政治的状況
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「老人と海」の記事における「『老人と海』を取り巻く政治的状況」の解説
『老人と海』が発表された1952年は、東西冷戦のさなかにあり、アメリカではマッカーシズムによる赤狩りがピークを迎えていた。『老人と海』発表と前後して、1951年にローゼンバーグ夫妻に対する有罪判決が下され、夫妻は1953年に処刑されている。非米活動委員会の調査の矛先は人民戦線時代の知識人とソビエト連邦の関係に向けられていた。当時、ヘミングウェイはソ連と最も深い関係にあった作家の一人であり、1938年、1941年、1942年、1943年にソ連共産党機関紙「プラウダ」に声明文を寄せていた。かつて1941年に『誰がために鐘は鳴る』でヘミングウェイはピューリッツァー賞の受賞寸前までいったが、作品の政治性がアメリカの体制に厭われ、スポンサーからの拒否にあって受賞に至らなかった。FBIはヘミングウェイのキューバでの活動について、詳細な調査ファイルを残しており、ヘミングウェイ自身もこのことに気づいていた。 このようなもとで発表された『老人と海』は、神話的な漁師サンチャゴ老人の自然に対する不屈の闘いを描いた「肯定的」な文学として読みうるものであり、冷戦下の読者と批評家は、ヘミングウェイが政治的な「麻疹」から脱却し、非政治的で純文学的な作家に回帰したことをこぞって歓迎した。このことはまた、当時反共主義を売り物にしていた雑誌『ライフ』が作品を一挙掲載し、またたくまに完売したことにもうかがうことができる。 一方、キューバの指導者フィデル・カストロは、1984年にノルベルト・フエンテス(英語版)とのインタビューにおいて、『老人と海』は反植民地主義へのメッセージだとする解釈を示している。カストロはヘミングウェイの愛読者であり、二人は1960年5月15日に会見していた。 ヘミングウェイが言ったとおり「人間は破壊されることはあっても屈服させられることはないのだ。」。これは、われわれのためのメッセージであり、あらゆる時代においてたたかう人々の叫びであり、彼の文学的主張なのだ。(中略)確実なのは、ヘミングウェイが公然ととった行動のすべては、われわれの革命を擁護するものだったということだ。 フエンテスによれば、ヘミングウェイはキューバ共産党に最も多額のカンパをした外国人であり、ヘミングウェイの主治医であり親友であったホセ・ルイス・エレラ・ソトロンゴは、カストロの抵抗運動に加わっていた。このようなキューバ革命とヘミングウェイのつながりを積極的に読み取ろうとする姿勢は、カストロだけのものではなく、リサンドロ・オテロ(英語版)の『ヘミングウェイ』(1963年)やメアリー・クルスの『ガルフ・ストリームのなかのキューバとヘミングウェイ』(1981年)など、革命後のキューバ批評家たちのヘミングウェイ論に広い範囲において認められる。
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