『明六雑誌』の停刊
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順調なスタートをきった『明六雑誌』であったが、それに暗い陰を投げかける条例が創刊翌年に公布された。讒謗律と新聞紙条例である。西欧的近代化を図る中で新たなメディアとして新聞や『明六雑誌』のような雑誌が次々と誕生したが、自由民権運動が高まると、それを苦々しく思っていた薩長藩閥政府はメディア統制を試み、さきの二つの条例を出したのである。具体的には新聞や雑誌を発行する場合、必ず内務省に届け出て許可を得ることや、掲載する記事・論説に書いた人間の署名をつけることなどが義務づけされた。加えて太政官から官吏たるものは官報公告以外のメディアに政務についてコメントしてはならないという通達が出た。 『明六雑誌』は、特に政府の目の敵にされた訳ではなかった。しかし政府とメディアの対立を等閑視できることもできなかった。発起人であった森有礼は明六社を純粋に学術的な啓蒙団体として構想し、また第30号で「時の政事に係はりて論するか如きは本来吾社開会の主意に非す」と言うように、非政治的であることを旨とした。しかし上で見たように『明六雑誌』には自由民権運動についての論説がしばしば掲載され、各種新聞で多くの反響を呼び、植木枝盛のような熱狂的な支持者を生み出すきっかけともなっていた。そもそも第30号での森の発言自体、そう言わねばならないほど明六社とその雑誌が政治的な性格を次第に帯びてきたことへの危惧の念の表明だったのである。 しかし官僚であり続けながら非政治的であろうとする森の姿勢には無理があったと言わねばならない。一方福澤諭吉は「学者職分論」以来、こうした官/民の立場の違いに意識的であり続けた。政府のメディア規制を前にして官僚兼啓蒙者は啓蒙者たり続けられるのかという問題は、明六社同人間の温度差を浮き彫りにし、雑誌の行く末をめぐって対立することになる。1875年9月、ついに箕作秋坪や福澤の停刊提案をきっかけに第43号で停刊中絶となった。森、津田真道、西周らは刊行継続を唱えたが、多くの社員は活動停止を支持した。明六社自体は、明六会と名を変え、親睦会的な内輪の会合となった。
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