『五畿内志』の思想と影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/04 16:55 UTC 版)
「五畿内志」の記事における「『五畿内志』の思想と影響」の解説
完成した『五畿内志』、正式には『日本輿地通志畿内部』の巻第一には「山城国之一」(『山城志』)が収められており、その冒頭には「日本輿地通志凡例」と「上 江都布政所書」の2篇が収載されている。「上 江都布政所書」は、幕府への上申書の体裁で書かれた序文であり、編纂の経緯が述べられている。神武東征以来の国土掌握の歴史を念頭に、古風土記の散逸を嘆いた関祖衡が地誌編纂に取り組んだが、志半ばにして世を去った。そこで、その遺志を継いで編纂を行ったと並河は記している。国土掌握(統治)との関係で地誌の必要性を語るこの序文は、太宰春台や、『会津風土記』(寛文6年〈1666年〉)の思想を引き継いだものである。だが、『会津風土記』が編纂された17世紀半における地誌編纂は、儒教への強い傾倒を示す一部の藩における領国地誌に限られており、地誌編纂の思想が全国的な影響をもつのは18世紀を待たなければならなかった。並河の独自性は、本書を『日本輿地通志』と命名し、実際には畿内5か国にしか及ばなかったにせよ、全国に及ぶ地誌編纂を射程に収めたところにある。確かに日本全国地誌の構想を語った知識人は、本書以前にも林鵞峯・太宰春台らが見られる。だが、それらの知識人は、具体的な方法論を示すにいたらず、地誌編纂に対する理解は抽象的な水準にとどまっていた。そうした意味で、自分自身で幾許なりとも実践を試み、のみならずその成果の板行・普及をも実現させた知識人は並河が嚆矢であろう。 本文は『大明一統志』にならった構成をとり、漢文で記されている。『大明一統志』は17世紀末から18世紀初葉にかけて紀州藩の藩儒の手で翻刻されたことにより、かつてとは異なって入手が容易になっていた。前述した17世紀末から18世紀初にかけての畿内での民撰地誌でも中国方志に倣った構成をとるものがあり、『五畿内志』もそうした民撰地誌と大きくは同じ流れに位置している。しかしながら、他の地誌とは異なって本書は直ちに広範な影響を呼び起こし、『五畿内志』に倣った構成や項目、漢文使用などを採る地誌が多数現れた。ここまで見てきたように、本書は並河・関の企画に幕府が公認・支援を与えたものではあるが、幕府の命によって編纂されたものではないと言う意味で幕撰地誌とは言えない。にもかかわらず、並河の死後に『河内志』訂正の願いが出された際、幕閣は吉宗に判断を仰いだ。既に板行・流布された書物を訂正するのは容易ではないから放置するのか、あるいは『河内志』を公事の証拠等に用いないよう改めて触を出すのか。判断を求められた吉宗は、『五畿内志』は並河個人の著作であって、訂正する必要はないと回答した。こうした経緯を見るに、吉宗自身の認識はさておき、幕閣を含めた一般の認識においては、その編纂事業に多くの便宜と費用が与えられた『五畿内志』は幕撰地誌であるとの認識が存在していたと言えよう。並河が板行を願い出たとき、その狙いを「他国之地理志編集仕候者」が容易に入手・閲読できるよう普及させることを挙げていたが、そうした企図は、『五畿内志』が地誌編纂のテキストと見なされ、長くに渡って参照され続けたことによって実現を見たのであった。
※この「『五畿内志』の思想と影響」の解説は、「五畿内志」の解説の一部です。
「『五畿内志』の思想と影響」を含む「五畿内志」の記事については、「五畿内志」の概要を参照ください。
- 『五畿内志』の思想と影響のページへのリンク