『三国志』注について
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『三国志』の「注」は原編纂者陳寿の記事に、陳寿が採用しなかったものも含め、異同のあるものも追記する方針で付注された。これらの「注」は「裴松之注」(略して「裴注」)と呼ばれている。 史料の良否はあまり気にせず取り入れている(「信用できない史料である」などと断りながらも載せている)ため、信憑性を問わなければ、陳寿の原著に比べて読み物として面白くなったと言える。そのため講釈師の話の種になり、そこから『三国志演義』の誕生につながってゆくことになる。 また、追記した史料の出典を明記しているため、三国志の同時代やその少し後の時代にどのような史料があったか、内容も含めて知ることができるし、史料著者の立場や時代によって、どのように説や主張に差異があるかを知ることもできる。当然ながら、同じ事件であっても魏側の記録と蜀漢、あるいは呉側の記録では基調が明らかに異なっている。さらに、同時代史料と、魏の次代である西晋、さらにその後である東晋に成立した史料とでは、事件に対する受け止め方が異なるため基調が異なっている。そうした基調の変化に対する比較検討の材料を、三国志の一部を占める裴注として記録に残したことで史料価値を高めている。 例えば魏の曹髦が殺された事件では、事件に西晋を建国した司馬氏が関わっているためか、陳寿は記述をぼかしている。裴松之は習鑿歯の『漢晋春秋』は関連諸資料の中でもっとも成立が遅いが、記録された殺害の顛末が一番まとまった内容であるとして、注の筆頭に引用し、続いて異説を挙げている。このように、付注により読者に史料の比較検討の機会を与えている。また、裴松之は自説に反する文献も注に引用しているので、裴注自体の再検討もできる。 引用されている文献は、魏・呉・蜀漢の順に多い。ただし、本文の分量に対する割合では、魏・蜀漢・呉の順となる。裴松之は東晋に仕えたという経歴から魏を正統として扱い、曹操を太祖、司馬懿を宣王と呼んでいる。陳寿に対しても敬意を以て接しており、また蜀漢の特に諸葛亮にも好意的な態度が目立つ。同様に荀彧や審配など国家や主君に忠義を尽くした人間を高く評価し、彼らへの異伝に対しては感情的とも見える反論を書き残している。『三国志演義』で採用された蜀漢についての逸話は、多くを裴注に拠っている。しかし、後世盛んになった講談や三国志演義などの蜀漢正統論による創作では、裴松之注の根底に見られる陳寿への敬意は引き継がれなかった(ただし、『三国志演義』は刊本によっては「晋平陽侯陳壽史傳。後學羅本貫中編次」(明の嘉靖年間の版本)と、陳寿を原作者として扱っているものがある)。
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