『三国志』華佗伝や『後漢書』方術伝における華佗
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『三国志』華佗伝や『後漢書』方術伝には、彼の行なった数々の治療や診断の例が記録されている。 陳登を診察した際、陳登の好物だった膾から感染した寄生虫が胃に巣くっていると診断した。治療として煎じ薬を2升作って半分ずつ飲ませ、寄生虫を吐き出させた。華佗が3年後に再発すると言うと、果たしてその通りになったが、その時華佗やそれに代わる医者がいなかったため、陳登は死んでしまった。 李通の妻が重病にかかると、流産した胎児が残っているためと診断した。李通は胎児がもう降りたと言った。しかし華佗は、胎児は双子であり、もう一人残っているのが病因と診断した。果たしてその通りだった。 県の役人の尹正は、手足が熱っぽく、口の中が乾いて、人の声を聞くと苛立ち、小便が通じない、という症状に悩まされていた。華佗は、熱いものを食べ汗が出れば平癒するが、出なければ3日で泣きながら絶命すると診断した。尹正は熱いものを食べたものの汗が出ず、果たして診断通りの死に方をした。 軍の役人の李成は、咳に苦しんで時に血膿を吐いていた。診察した華佗は、病原は肺炎ではなく腸炎と診断し、さらに18年後にちょっとした再発があるからと、その分も合わせて粉薬を出した。その5・6年後、李成の親類に同じ症状になった者がいたので、李成の親類は後で華佗から貰って来るからと李成に頼み、予備の薬を融通してもらった。親類は治癒すると、約束通り華佗のいる譙に向かったが、丁度華佗が曹操に捕縛された後だったため、薬が手に入らなかった。薬のない李成は、華佗の診察を受けた18年後に病が再発して死んでしまった。 重病に苦しむある郡太守の様子を診たところ、激怒させるのが最も効果的な治療法だと診断した。華佗は高額の薬代を貰いながらも治療を行わず、ついには郡大守の悪口を書いた手紙を残し去って行った。これに激怒した郡太守が数升の血を吐いたところ、すっかり病気が治ってしまった。
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