『エレクトロニクスワールド』誌との合併
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「ポピュラーエレクトロニクス」の記事における「『エレクトロニクスワールド』誌との合併」の解説
『ラジオ&テレビジョンニュース』誌は1959年に『エレクトロニクスワールド』(Electronics World)となっていたが、1972年1月に『ポピュラーエレクトロニクス』誌に統合された。このプロセスは1971年夏、長年にわたり編集者だったオリバー・P・フェレルに代わって、新しい編集者のミルトン・S・スニッツァーが就任したことから始まった。スニッツァーは、CBラジオやオーディオ機器など、広告の出稿が盛んなトピックに焦点を当てることにした。電子工作プロジェクトはもはや特集記事ではなく、それらは新製品のレビューに置き換えられた。編集の方向性の変化は、多くの執筆者を動揺させた。ダン・メイヤーはSWTPC社のカタログに、顧客に対して競合誌の『ラジオ=エレクトロニクス』誌への切り替えを促す文章を掲載した。 ドン・ランカスター、ダン・メイヤー、フォレスト・ミムズ、エド・ロバーツ、ジョン・サイモントン(英語版)などの執筆者が『ラジオ=エレクトロニクス』誌に移った。「ソリッドステート」のコラムニストだったルー・ガードナーでさえ、1年間『ラジオ=エレクトロニクス』誌に移っていた。『ポピュラーエレクトロニクス』の技術編集者であったレス・ソロモンも、"B. R. Rogen"という偽名を使って『ラジオ=エレクトロニクス』誌に6本の記事を書いていた。1972年と1973年には、『ポピュラーエレクトロニクス』が合併を進めて行く中で、最高の電子工作プロジェクトが『ラジオ=エレクトロニクス』誌に登場した。この時代に生まれた次世代のパーソナルコンピュータは、『ラジオ=エレクトロニクス』と『ポピュラーエレクトロニクス』の間のこの競争の恩恵を受けていた。 1973年9月、『ラジオ=エレクトロニクス』誌で、ドン・ランカスターが設計した低価格の端末であるTVタイプライターが発表された。1974年7月、『ラジオ=エレクトロニクス』誌で、Intel 8008を使用したマイクロコンピュータ・Mark-8が発表された。『ポピュラーエレクトロニクス』の出版社は『ラジオ=エレクトロニクス』誌の成功に注目し、1974年にはアーサー・P・サルスバーグが編集者に就任した。サルスバーグと技術編集者のレス・ソロモンは、電子工作プロジェクトの特集記事を復活させた。『ポピュラーエレクトロニクス』誌は、雑誌で特集するコンピュータのプロジェクトを探し、Intel 8080を使用したエド・ロバーツのAltair 8800を取り上げることにした。『ポピュラーエレクトロニクス』1975年1月号の表紙にAltairが掲載され、これがパーソナルコンピュータ革命の幕開けとなった。 最初の20年間は、ダイジェストサイズ(英語版)(6.5インチ×9インチ)だった。表紙のロゴは、長方形のボックスにサンセリフの書体だった。表紙には大きなイメージの特集記事が掲載されていたが、通常は電子工作の構築記事が中心だった。1970年9月、表紙のロゴは下線付きのセリフ体に変更された。雑誌の内容、タイポグラフィ、レイアウトも更新された。1972年1月には、表紙のロゴに"including Electronics World"(『エレクトロニクスワールド』を含む)という文言が加えられ、巻数が1にリセットされた。2年後に"including Electronics World"の文言はなくなった。特集企画の大きな写真はなくなり、記事のテキストリストに置き換えられた。1974年8月、雑誌はより大きなレターサイズ(8.5インチ×11インチ)に変更された。これは、回路図などの図版を大きくしたり、印刷をオフセット印刷機に切り替えたりするほか、広告主からの広告ページを大きくしたいという要望に応えるためだった。長年目次に書かれていた"World's Largest Selling Electronics Magazine"(世界で最も売れている電子工学雑誌)というタグラインは表紙に移された。
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