「装甲の奇跡」
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「アルベルト・シュペーア」の記事における「「装甲の奇跡」」の解説
「装甲の奇跡(ドイツ語版)」も参照 1942年2月7日に軍需相(兵器・弾薬大臣)のフリッツ・トートが飛行機事故死した。シュペーアは後任の軍需相(正確には、1942 - 1943年兵器・弾薬大臣、1943 - 1945年軍需・軍事生産大臣)に就任する。はじめは門外漢であると固辞していたが、ヒトラーの熱心な要請に押される形で就任に至った。ヒトラーが若い彼を大抜擢したのは彼が過去の建築プロジェクトでみせた緻密な計画と組織経営力を兼ね備えた優秀なテクノクラートであったからと思われるが、シュペーア本人はヒトラーは指導的地位を素人で固める事を好み、ヒャルマル・シャハトのような専門家閣僚は好まなかったのが原因だろうと分析している。 着任後まもない2月13日には、総合的な軍備計画がシュペーアのもとで計画されることとなった。さらに労働力の統制権限強化を求めて意見書を提出し、フリッツ・ザウケルを労働力配置総監(ドイツ語版)(GBA)にすることに同意した。これまでドイツ経済に強い影響力を持っていた四カ年計画庁と、労働力配置に影響力を持っていたドイツ労働戦線は強く反対したが、ヒトラーはシュペーアの意見に同意した。これにより四カ年計画庁と労働省は労働力配置の全権をザウケルに譲渡したが、そのザウケルも広範囲に軍需省の指揮に従属することとなった。1942年8月には兵器製造指数が半年前に対して27%、戦車は25%、弾薬製造は97%増加した。1943年には更に飛躍的に伸び、「シュペーアの奇跡」や「装甲の奇跡」と呼ばれた。ドイツの軍事生産力は1944年が最大の時期であり、工業生産の40%を兵器が占めていた。 一般的に部品の共通化などの生産体制の効率を推し進め、軍需生産を増大させたのは全てシュペーアの功績であるように言われているが、実は彼が行った政策の殆どは前任者であるトートが既に考えていたものであった。しかしトートは、ヒトラーから政治的に全幅の信頼を寄せられていたシュペーアとは違い、政治的権力を持っていなかったため、各企業や省庁間などの利害関係の調整を纏めきれず、結果的にあまり成果を挙げることができないまま、事故死してしまう。 後任のシュペーアは部品の共通化などの実現に向け関係企業・省庁を纏めあげた。結果的に、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}生産体制の効率化を見事に達成しただけでなく、図らずも現在の経営工学に通じる斬新な理論を確立したという2つの大きな功績[要出典]は、全て彼のものとなった。 また、能率化、コストダウンを重視していたためV2ロケット、ドーラなど、ヒトラーが欲していた高コストで大きな破壊力を誇る兵器よりも小型で使い勝手のいい兵器を作りたがっていた。しかし、建築でこそヒトラーと対等に渡り合ってきたシュペーアであったが兵器に関しては全くの素人であったこともありヒトラーに押し切られてしまい、結局シュペーアの懸念が現実のものとなり新兵器開発計画は頓挫してしまった。そして初めてシュペーアはヒトラーに対し不満を覚えることになり、シュペーアは部下にヒトラーに対する愚痴をこぼしていたと、シュペーアの元部下のW.シェルケスは証言している。
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