「ヒューマニズム」批判
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「マルティン・ハイデッガー」の記事における「「ヒューマニズム」批判」の解説
ハイデッガーは戦後の著作『「ヒューマニズム」にかんする書簡』においてサルトルが本質と実存を転倒し、実存の先行性を訴えたとし、にもかかわらずそれら既存の形而上学から抜け出ていないことを指摘した。ハイデッガーからみればサルトルの思想は時間性の本質-存在の問い-を省いた空虚さを備えている。サルトルもまた存在忘却の歴運の中にある。ハイデッガーは「人間らしさ」に反対はしないが、ヒューマニズムには反対する。ただヒューマニズムが人間にたいし人間性を十分高く設定しきれないからであり、最高のヒューマニズムさえが人間の本来的な尊厳には届かないからである。 またハイデッガーは『ヒューマニズム書簡』ではカール・マルクスについても言及しており、「家がないことが世界の運命となっている。存在史の点からこの運命を考察する必要がある。マルクスがヘーゲルから受け継いだことは、現代人の存在の家がなくなったことにそのルーツがあるような人間の疎遠性である。この家がないことは特に形而上学という形態における存在の運命から発生すると同時に、そのようなものとして身を隠し、覆われる。マルクスは疎外の経験によって歴史の本質次元に到達したゆえに、マルクス主義の歴史観は他よりも優れている」と、しかしフッサールとサルトルは存在における歴史性をの本質的な重要性を理解していないし、現象学と実存主義はマルクス主義とその中で初めて生産的な対話が可能となるような次元に入っていない、とする。ハイデッガーによれば、唯物論の本質は、すべての存在者が労働の素材として現出すると形而上学的に限定することにあり、共産主義を党派または世界観(イデオロギー)としてのみ受け取る者は短絡していると批判している。 ハイデガーは「人間」を、或は「実存的人間主体」でさえ何かの中核としようなどとは思っていなかった。ハイデガーは何よりも先ず存在論者で実存主義者ではなかったからである。『存在と時間』は人間存在を考察する書であり、実存主義的用語(本来性、不安、等々)を用いてはいるが、それは存在そのものを考察する過程でそうしているに過ぎない。ハイデガーにとって最大の関心事は人間でも人間主体でもなく『存在』である。 ハイデガーはヒューマニズムにサルトルより根源的な意味を持たせた。そこで問題となるのは人間そのものではなく。「存在との関係における人間」である。ハイデガーによれば、人間は「存在の羊飼い」である。存在に注意を払い、存在を庇護する。そして、そこに人間の尊厳がある。 この意味での人間は、ヒューマニズムに関わるあらゆる概念に先行する。人間のより「本質的」な捉え方である。 これは人間主体についての西欧の通念を揺さぶる考えである。ハイデガーは、人間なり主体性なりを哲学を構築する出発点、中心、基盤とすることを拒否した。しかし、ヒューマニズムを解体するというのは非人間性を良しとすることにならないだろうか。ハイデガーは非人間性を擁護するつもりも「野蛮な残忍性」を美化するつもりも、価値観のない状況を推奨するつもりもない、と主張する。 人間が適切な方法で生きるための諸規則が、たとえ脆弱にしか人々を繋ぎ止めえないとしても我々はその規則を守るべきである。しかし、それより先に「存在の問題」が来なければならない。「存在」は存在するもの全てに先行する。もし、それによって人間や人間的価値観が中心から押し退けられるのであれば、それはそれで仕方がない。 このようなハイデガーの捉え方に評論家の意見は鋭く対立していた。主体性についてのあらゆる問題が再考察の対象となるのは避けられない。しかし、同時にハイデガーが人間の隣人としての人間ではなく「存在の隣人」としての人間を描いたことによって、人間が考察対象としての価値を増したのも事実である。
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