「ニューリーダー」とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 「ニューリーダー」の意味・解説 

「ニューリーダー」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 05:41 UTC 版)

宮澤喜一」の記事における「「ニューリーダー」」の解説

党内では池田派宏池会)に所属し1973年には派閥横断グループ平河会」を結成し座長となる。早くから総裁候補目されポスト田中角栄1974年)で総裁推す声が一部上がった他、ソニー会長盛田昭夫らの周旋による政財界団体自由社会研究会」の結成1977年)が宮澤総裁推すためのものと取沙汰されたり四十日抗争1979年収拾策の一つとして宮澤擁立取沙汰されたりもする。大平急死1980年)後の後継では本命一人だったが、当時まだ隠然たる影響力持っていた田中との関係の悪さがマイナスとなり実現せず、同じ宏池会田中近かった鈴木善幸総裁就任鈴木内閣(および同改造内閣)では内閣官房長官務め次代中曽根内閣期まで、安倍晋太郎竹下登と共に「ニュー・リーダー」と称されグループ一人となり、この3人は安竹宮呼ばれた官房長官としては、鈴木首相の度々の失言後始末をこなし、宮澤実務能力改め政界内外印象付けられた。退陣表明後の鈴木に、反主流派中心人物である福田赳夫宮澤への後継指名提案したが、鈴木断っている。 派内では、宮澤対抗意識を燃やす田中六助と「一六戦争」と呼ばれる後継争い繰り広げ、その過熱懸念呼んだことから平河会座長を退いている。田中持病糖尿病悪化させ病没後の1986年昭和61年)、宏池会会長となり派閥継承名実共に総裁候補となった総務会長時代1986年には、中曽根提唱する衆参同日選挙当初反対したが、最終的に受け入れたプラザ合意その後急激な円高巡り中曽根経済運営強く批判していた宮澤は、中曽根により大蔵大臣就任要請され自ら円高是正奔走することになる。大幅な介入ベーカー財務長官との頻繁な協議にもかかわらず有効な手を打てぬまま、円高加速した1987年昭和62年秋に中曽根後継者の座を安倍竹下争ったが、中曽根裁定により竹下総裁就任する総務会長安倍の下で総務会長代理だった森喜朗は「宮澤さんは、はじめから自分カヤのそとだ」と思っているから、どちらがなっても、主要閣僚になればいいと思ってたんじゃないのかな。」と述べている。宮澤竹下内閣副総理蔵相として入閣し消費税導入尽力するが、1988年昭和63年)、リクルート事件発覚すると、未公開株譲渡について倫理的責任問われ大臣辞任した

※この「「ニューリーダー」」の解説は、「宮澤喜一」の解説の一部です。
「「ニューリーダー」」を含む「宮澤喜一」の記事については、「宮澤喜一」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「「ニューリーダー」」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「「ニューリーダー」」の関連用語

「ニューリーダー」のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



「ニューリーダー」のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの宮澤喜一 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS