「ニューリーダー」
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党内では池田派(宏池会)に所属し、1973年には派閥横断グループ「平河会」を結成し座長となる。早くから総裁候補と目され、ポスト田中角栄(1974年)で総裁に推す声が一部で上がった他、ソニー会長盛田昭夫らの周旋による政財界団体「自由社会研究会」の結成(1977年)が宮澤を総裁に推すためのものと取沙汰されたり、四十日抗争(1979年)収拾策の一つとして宮澤擁立が取沙汰されたりもする。大平急死(1980年)後の後継では本命の一人だったが、当時まだ隠然たる影響力を持っていた田中との関係の悪さがマイナスとなり実現せず、同じ宏池会で田中と近かった鈴木善幸が総裁に就任。鈴木内閣(および同改造内閣)では内閣官房長官を務め、次代の中曽根内閣期まで、安倍晋太郎・竹下登らと共に「ニュー・リーダー」と称されたグループの一人となり、この3人は安竹宮と呼ばれた。官房長官としては、鈴木首相の度々の失言の後始末をこなし、宮澤の実務能力が改めて政界内外に印象付けられた。退陣表明後の鈴木に、反主流派の中心人物である福田赳夫が宮澤への後継指名を提案したが、鈴木は断っている。 派内では、宮澤に対抗意識を燃やす田中六助と「一六戦争」と呼ばれる後継争いを繰り広げ、その過熱が懸念を呼んだことから平河会座長を退いている。田中が持病の糖尿病を悪化させ病没後の1986年(昭和61年)、宏池会会長となり派閥を継承、名実共に総裁候補となった。総務会長時代の1986年には、中曽根が提唱する衆参同日選挙に当初は反対したが、最終的に受け入れた。プラザ合意とその後の急激な円高を巡り、中曽根の経済運営を強く批判していた宮澤は、中曽根により大蔵大臣就任を要請され自ら円高是正に奔走することになる。大幅な介入やベーカー財務長官との頻繁な協議にもかかわらず有効な手を打てぬまま、円高は加速した。 1987年(昭和62年)秋には中曽根の後継者の座を安倍・竹下と争ったが、中曽根の裁定により竹下が総裁に就任する。総務会長の安倍の下で総務会長代理だった森喜朗は「宮澤さんは、はじめから「自分はカヤのそとだ」と思っているから、どちらがなっても、主要閣僚になればいいと思ってたんじゃないのかな。」と述べている。宮澤は竹下内閣に副総理兼蔵相として入閣し、消費税導入に尽力するが、1988年(昭和63年)、リクルート事件が発覚すると、未公開株の譲渡について倫理的責任を問われ大臣を辞任した。
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