「ディアボーン・インディペンデント」裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 03:26 UTC 版)
「ヘンリー・フォード」の記事における「「ディアボーン・インディペンデント」裁判」の解説
しかし、1922年には「ディアボーン・インディペンデント」に掲載される反ユダヤ記事の間隔が開き始め、またサンフランシスコの弁護士でユダヤ系農場の協同組合を組織したアーロン・サピロ(Aaron Sapiro)から名誉毀損で訴えられた。 名誉毀損防止同盟 (ADL) はフォードは新聞記事でユダヤ人に対するポグロムや暴力を明確に非難している一方で、集団暴力事件を起こしているとしてユダヤ人を非難している。ADLは著名人を集め、フォードのメッセージに公然と反対し、デトロイトの新聞で反対意見を掲載し続けた。 実はフォードは新聞記事を書いたことはなく、単にフォードの名前を記事の署名として使うことを許していただけだったという。実際、彼がほとんど何も書いていないという証拠も法廷に提出された。友人や仕事の関係者はディアボーン・インディペンデント紙の内容についてフォードに忠告したが、フォードは見出しを読んだだけで中身を読んでいなかったという証言もある。フォードの名で記事を書いた編集者ウィリアム・キャメロンは裁判で、フォードは論説と無関係であり、フォードと内容について議論したこともないし、内容を承認してもらうためにフォードのところに出向いたこともないと証言した。しかし、裁判ではフォードがインディペンデント紙の内容を出版前に知っていたとする証拠も提出された。ディアボーン・インディペンデント紙の元従業員 James M. Miller がフォードからサピロのことを暴き立ててやるつもりだと聞かされたと宣誓証言したことで、この不合理な証言の信憑性は徐々に蝕まれていった。また、キャメロンがフォードの指示なしで出版し続けたというのは関係者には想像できないことだった。 ユダヤ人とキリスト教自由主義者らによるフォード車不買運動もインパクトがあり、フォード車の販売が急落した。客にインディペンデント紙を渡していた販売店は、廃刊になる前には配られた同紙を買い占めて廃棄せざるを得なくなっていた。 フォードは1927年夏に同紙を廃刊し、ADLの Sigmund Livingston にそれまでの見解を取り消し謝罪する旨の公開書簡を送り、これまで反ユダヤ主義出版物を廃棄した。フォードの謝罪は歓迎された。1927年7月にフォードが受け取った数百通の手紙のうち、5分の4はユダヤ人からで、彼らはほぼ例外なくフォードを賞賛していた。『国際ユダヤ人』については著作権が複雑化していたが、フォードが訴訟を起こし、1942年に出版停止となった。 他方、フォード・モーターは黒人を積極的に雇用し、また女性や身体障害者もいち早く雇用している。ユダヤ人労働者や供給業者から告発されたことはなかった。また、フォードと親しかった有名なユダヤ人としてデトロイトの裁判官ハリー・ケイダンがいる。ビジネス上はユダヤ人の優秀さも買っており、フォードの工場はユダヤ系のアルバート・カーンに設計させている。 なお、フォード以後も、飛行家チャールズ・リンドバーグやカトリック司祭チャールズ・コグリンは1930年代に反ユダヤ主義発言を主張した。 フォードはワーグナー、チェンバレン[要曖昧さ回避]、ヒトラーと同じく菜食主義者であり、強い酒、コーヒー、紅茶、タバコを御法度としたが、こうした「異物拒否」の強迫がユダヤ人に差し向けられたとポリアコフは見ている。
※この「「ディアボーン・インディペンデント」裁判」の解説は、「ヘンリー・フォード」の解説の一部です。
「「ディアボーン・インディペンデント」裁判」を含む「ヘンリー・フォード」の記事については、「ヘンリー・フォード」の概要を参照ください。
- 「ディアボーン・インディペンデント」裁判のページへのリンク