村下孝蔵 人物

村下孝蔵

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人物

生い立ち

1953年2月28日熊本県水俣市浜町仲之町通りで、映画館(村下興業社)を営む夫婦の第3子として生まれる[出典 1]。家には幾つもの土蔵があり[8]親族7家族が住む大きな家だったという[8]。代々、男子は独立して蔵を持てという理由で[8]、祖父の名は改蔵、父は昭蔵、兄は収蔵だった[8]。最盛期の村下家は、水俣市に『東宝寿』『日活寿』2軒と九州各地に5軒と計7軒の映画館とレストランを経営した資産家だった[出典 2]。生まれて間もない頃の村下は泣くことが少なく、近隣の住人に「生まれたと聞いたけれど泣き声がしない」と不思議がられたという[7]。村下は、そのまま無口な少年に育った。幼少期の村下は実家の営む映画館で一番前の席に座って映画を観たり[出典 3]、姉と一緒にラジオで歌謡曲を聴いたりして過ごすことが多かった[15]

1959年、父が鹿児島県出水市本町商店街に新たな映画館(泉映)を建てると一家は転居し[9]、1年ほどで水俣市仲之町通りに戻った(1年間出水市立出水小学校に通う)[出典 4]。この頃、村下は姉とともにロカビリーに夢中になった。村下は日劇ウエスタンカーニバルの映像を映画館で観て、歌手への憧れを口にすることもあった[17]。映画館の事務所には休憩時間にかけるレコードが置かれていて、村下は姉とともに聴き漁った[18]。村下はエレクトリック・ギターの音に興味を抱くようになり、寺内タケシとブルージーンズを好んで聴いていたが、やがて「こっちのほうがすごい」とベンチャーズに夢中になった[18]。1965年、映画『エレキの若大将』で加山雄三の「夜空の星」を聴いたことをきっかけに「ボクも作曲する。歌う。エレキ・ギターも持つ」と言うようになる[出典 5]。村下はかねてから両親にエレキ・ギターをせがんでいたが、「不良になるからダメ」[注釈 1]、「弾けもしないうちから買ってどうする」といった理由で聞き入れられなかった[20]。そこで村下は、加山のギターをモデルにラワン材を使って1ヵ月がかりでギターを自作した[出典 6]。ギターが完成すると三面鏡の前に立ち、加山の演奏スタイルを真似ていたという[19]。中学の2年生のとき、父親から「ベンチャーズの曲をちゃんと弾けたらギターを買ってやる」と条件を出され、友だちのギターを借りて猛練習し、「ダイアモンド・ヘッド」を父親の前で演奏しきり、日本製のグヤトーンのエレキ・ギターを買い与えられた[20]。しかし母親には秘密だった為、母親のいる時は押し入れに隠していた。だが、母親が布団を干した時に見つかってしまった。母親は受験が控えている為ギターに夢中になり勉強をしなくなる事を心配していた。高校進学後の1969年、村下は憧れだったモズライト・ギターを父親から買ってもらった[21]。父親は1967年に収益の悪化していた映画館を廃業し[22]、新たな事業として温泉の採掘を行ったが失敗[20]、その後は阿蘇市のホテルに就職し、母親と共に転居[出典 7]。中学時代から競泳平泳ぎの選手として活躍した村下は[2]オリンピックを目指し[11]、水泳部の特待生として鎮西高等学校体育科に入学し[出典 8]、寮生活を送った後、北九州市の短期大学に入学した姉と熊本市内で同居した[21]。水泳をやっていたのは小学校4年のとき『海の若大将』を観て感動したからである[8]

高校を卒業後、広島へ

1971年、高校を卒業した村下は大学進学を諦め[11]、得意の水泳でスカウトされ[25]実業団新日本製鐵八幡製鐵所入り[出典 9]。朝7時半に出社し正午まで仕事[8]。午後1時半から夜10時まで猛烈な練習[8]。1日1万2,000メートルを泳ぎ、腹筋背筋練習の後、君原健二と2キロ走る[8]。当時のスポーツ選手の合言葉は「勝負に泣くな、練習で泣け(飛田穂州)」[8]。当時の部員によると、高校で実績を残した(1969年、中部九州大会平泳ぎ100メートル優勝[21])とはいえ実業団の中では平凡な選手[注釈 2]で、水泳のタイムが伸びず、会社を辞めようと思っていたら[11]、工場長からギターが弾けるんだからと会社のハワイアンクラブを勧められ入部。宴会部長として活躍するが[出典 11]ハワイアンが自身の音楽志向に合わず[23]、同年9月に同社を退職[出典 12]。その時の無念さは言葉では言い表せないものだった[8]。落合昇平は寮生活を送る中、ギターを弾く時間がほとんどないことに悩んだのだろうと推測している[28]。当時父親は東洋工業(現マツダ)に転職して広島市に転居しており、音楽中心の生活を目指し村下も広島へ移った[出典 13]。当時の広島はフォーク聖地[23]、村下の頭には広島フォーク村の存在があった[出典 14]。村下は浜田省吾と同学にあたり、もう1、2年早く広島に転居して、吉田拓郎在籍時の広島フォーク村に参加していたら、違う音楽人生になっていたかもしれない[32]

1972年、日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科入学[出典 15]。広島に来て間が無い村下には友達がなく、平和公園で一人でギターを弾くことが多かった[出典 16]。間もなく平和公園近くの広島本通木定楽器を見つけ、よく通うようになった[33]。初レコーディングは同店[33]。『エレキの若大将』に憧れ、ベンチャーズに心酔していた筋金入りのポップス少年村下が[34]、広島でエレキ・ギターをフォーク・ギターに持ち替え、曲作りを始めた理由は、当時の広島は吉田拓郎のコピーをやる人が多く、フォーク・ギターを持たなければ仲間が作れなかったためであった[10]。学校の仲間と4人グループ「カラフル」を結成して多くのフォーク・コンテストに出場し入賞[30]。同年夏、僅か300枚の自主制作シングル「ひとりぽっちの雨の中」を発表[出典 17]。同校卒業後ヤマハ広島店[37]に就職[出典 18]。「ピアノ調律師になりたいです」と上司に願い出たら「養成費もかかるし、難しいね。君が1ヵ月でピアノ購入30件の契約を取れたら考えよう」と言われた[8]。粘り強さでは負けず、1ヵ月で43件の契約を取り、二年間でピアノ調律師の資格を取得した[8]1975年からはピアノ調律師として勤務する傍ら[出典 19]ホテル法華クラブ広島ラウンジ弾き語りのアルバイト等で地道に音楽活動を継続した[出典 20]。時代的にフォークは徐々にバンドサウンドエレキを含んだロックニューミュージック系に形を変えつつあったが[出典 21]、村下は「アコースティックの時代がまた必ず来るよ」と言っていたという[31]

中国放送ラジオ制作部の那須和男ディレクターは、偶然観た村下の演奏に惹かれ[出典 22]、『たむたむたいむ』のラジオパーソナリティに村下を推薦するなど村下をバックアップした[出典 23]。同番組で、村下は当時まだ大学生だった西田篤史とコンビを組む[出典 24]。1978年に那須が担当していた全国ネット番組『青春音楽列島』で紹介され大きな反響を呼ぶ[30]。1979年には大学を卒業した西田の初レギュラーである同局のラジオ番組『ひろしま青春大通り!ヤンヤン放送局』(1979年10月11日~終了日不明)の音楽コーナーを担当した[30]。プロ歌手への誘いやレコード会社への斡旋話もあったが、いずれも実現せず、「こうなったら独力で何がなんでもカタチにしてみせる!」と資金稼ぎに奮闘しながら曲づくりに励む[30]。東京の貸しスタジオは料金の安い夜間だけ借り、既にプロになっていた往年の仲間が駆けつけて伴奏や機器操作を担当して5日間で録音を終え、1979年ヤマハを退社し、同年7月25日、自費制作アルバム 『それぞれの風』を発表[出典 25]。全11曲は当時「思いを寄せていた女性をイメージして作ったものがほとんど」と話していたという[30]レコーディングの様子はテレビ番組(『青春音楽列島「それぞれの風」』)として放映された[41]。この頃の村下は第2期の広島フォーク村に参加するなど広島の音楽好きには知られた存在となっていた[出典 26]。村下は『それぞれの風』でヤマハ主催のポピュラー音楽コンテストに応募したが、受賞はならなかった[出典 27]

プロとしてのデビュー

1979年、知人のライブハウス店主から勧められ、当時のCBS・ソニー(現在のソニー・ミュージック)の全国オーディション(第1回CBS・ソニーSDオーディション)に応募し、グランプリを獲得[出典 28]。しかしCBS・ソニーとしては、当時流行っていた山下達郎南佳孝などのシティポップのアーティストを探しており、フォーク系でそれなりに年齢も重ねていた村下の将来性を巡ってはCBS・ソニー社内でも意見が分かれた[出典 29]。プロデューサーとして村下の全作品を手がけた当時の若手ディレクター・須藤晃によると「このオーディションで一番レコードが売れるのは村下孝蔵だ」と断言する者もいれば「フォークはもう終わりだぞ。ラジオスターの時代じゃなくルックスの時代なんだ」と村下のルックスや年齢に難色を示す者もいた。ただ楽曲や声の良さは誰もが認めるところで、須藤の押しや[6]、中国放送がバックアップしていたこともあり何とかデビューが決定[41]1980年5月21日、27歳の時、シングル月あかり」でプロデビューした[出典 30]。同曲は前年発表した自主制作アルバム『それぞれの風』からのリカットシングルで、湯来温泉での思い出からイメージをふくらませて書かれたもの[30]。同期合格者にはHOUND DOG堀江淳五十嵐浩晃らがいた。プロになると決意した村下は、最高のギターを持っていたいという思いから馴染みの楽器店でマーティンD-45を購入している[出典 31]。プロとなった後も、テレビ出演はせず、広島を拠点に地道にライブ活動を続ける[出典 32]。このためプロの歌手になったからと言って、デビュー直後に劇的な変化はなかった[5]

1981年1月にリリースされた2枚目のシングル「春雨」は、地道なプロモーションを重ねて、チャート最高位58位を記録、およそ3ヵ月半に渡ってチャートにランクイン[5]1982年発売の「ゆうこ(原題:ピアノを弾く女)」は、北海道札幌有線で火がつき、全国ヒットになり[出典 33]、チャート最高位23位を記録、約7か月半にわたってチャートインした[5]。1979年に日本画家・船田玉樹の娘と結婚[出典 34]、後にシンガーソングライターとなる娘をもうけている(1985年離婚、村下はこの後再婚)[出典 35]。同年10月、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)に初出演した[5]

1983年、30歳にして発表した5枚目のシングル「初恋」は、オリコンチャートで最高3位を記録する大ヒットとなる[出典 36]。「初恋」は村下がバラードとして作ったものを編曲家水谷公生がテンポを上げてポップ系に編曲し、村下がそれを受け入れたことで完成をみた楽曲であった[54]。水谷はかねてから須藤晃に「もうフォークにこだわらなくてもいいんじゃないか」と進言していた[54]。水谷は村下を「でっかい人だった。人にゆだねる強さがあった」と評している[54]。『ザ・ベストテン』から何度も出演要請があったが出演せず[25]。体調がよくないこともあったが、「一曲で自分の評価を決められることは嫌なんだ」と言っていたという[25]

「初恋」発売の前後に全国キャンペーンなどのハードスケジュールが原因で肝炎を患い[出典 37]、多くのイベント、番組出演などをキャンセルし「初恋」がヒットしてもテレビ番組にはほとんど出演できなかった[出典 38]。それが原因で広島と東京の往復ができなくなり、1984年末に生活の拠点を東京に移した[57]。同年秋から全国ツアーを開始したが翌1985年に再び体調が悪化し[1][56]、入退院を繰り返した[出典 39]。この時期に、広島から定年退職したばかりの父親も東京で暮らし始めた[58]。1987年に全国ツアーを再開。この年に催した七夕コンサートは毎年の恒例行事となった[58]。同年9月にリリースしたシングル「陽だまり」が『めぞん一刻』の主題歌の一つとして起用された[2]。1988年、神奈川県川崎市のCLUB CITTA'で行われたベンチャーズのライブにゲストとして出演。ベンチャーズと一緒に演奏するという夢を叶えた[59]

1989年、アルバム『野菊よ 僕は…』を発売。須藤晃によるとこの頃アルバムの売れ行きが大きく落ち込み、「初恋」の時期から指摘され続けてきたメロディラインの古さが飽きられてきたことが理由であったが、これといった手を打ってこなかった村下にも須藤自身にも焦りが生じたという[60]。1992年発売のシングル「ロマンスカー」は「これが売れなきゃおかしい」という思いで制作し[60]、完成時に村下が「やっと納得する作品が出来た!」と語った[61]渾身の作品であったが売れず、須藤は「時代が違ってきたんだ」と感じたという[60]。この時期の村下は試行錯誤の末、「自分には"初恋"を越える曲はできんかもしれん」「時代は追いかけるものではなく、巡りくるもの。向こうからやってくるのよ」という境地に至った[61]

1994年、広島で開催された第12回アジア競技大会(広島アジア大会)協賛として中国新聞社・中国放送の共同企画により制作された紀行ドキュメンタリー番組『アジア・ピースロード~出会いと友情のキャラバン』(1992年10月4日~)のテーマソング一粒の砂」を製作[出典 40]

死去

1999年6月20日駒込スタジオコンサートリハーサル中に突然「気分が悪い」と体調不良を訴え[出典 41]、当初は救急車も呼ばずスタッフ付添のもと自力で病院を訪れていたが、診察でCTの装置に入った時点で意識不明の昏睡状態に陥った[25]。診察の結果「高血圧性脳内出血」と判明。医師の所見では当初、1週間ほどで回復し日常に戻れると言われていたが、脳内出血が再発し僅か4日後の6月24日に死去[64]。46歳没。葬儀は6月26日に営まれた。妻の希望により、出棺の際には村下が生前最も気に入っていた楽曲「ロマンスカー」[60]がかけられた[出典 42]7月3日には東京の渋谷公会堂でお別れ会が[66]8月8日には西田篤史の呼びかけで、広島市内の寺院とうかさん円隆寺で音楽葬が営まれた[出典 43]戒名は「乾闥院法孝日藏清居士」、墓所は茨城県稲敷郡茎崎町(現在のつくば市)の筑波茎崎霊園にある。


注釈

  1. ^ 当時の日本にはエレキ・ギターの所持が少年不良化につながるという風潮があった[18]
  2. ^ 同年代の平泳ぎ100メートル種目には、1972年ミュンヘンオリンピック金メダリストとなった田口信教がいた[出典 10]。田口は広島を拠点にフジタドルフィンクラブで練習を積んでいた[27]
  3. ^ 表記はオリジナルシングル盤ジャケット表記に基づく。送り仮名のない「松山行フェリー」表記もみられる。
  4. ^ 中林由香とのデュエット。
  5. ^ 初恋/踊り子/ゆうこ/少女/春雨を収録。
  6. ^ 自主製作盤。「ひとり暮らし」など一部の曲はプロデビュー後、発表された。没後、アルバム『純情可憐』において一部収録された。
  7. ^ コンサート会場と通販のみの販売。
  8. ^ 全曲最新リマスタリングの再編集CD10枚とライブ映像DVD1枚の11枚組BOX。完全生産限定盤。

出典

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