村上麗碩 墓碑(境港市上道町墓地)
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村上麗碩 - 翹楚堂岳翁居士 明治己卯夏六月十日、村上岳翁先生歿す。既にして其の門人碑を建てんことを議し、余に命じて之が辞を為(つく)らしむ。 先生諱は粛、字は厳卿、通称は麗碩、又岳翁と称し、号は翹楚堂。南氏の次子にして分家するも其の本姓とする所を按ずると云ふ。少(わか)きときより学を好み、専ら経義を治む。 嘗(かつ)て医を備の難波抱節の門に受け、又数(しばしば)京坂の間に遊びて養生の学を修む。既に帰りて出でず。後学を導びくを以て務と為して晩に及ぶも衰へず。諸(もろもろ)の門に遊ぶ者一百余人。常に其の言を記す。曰く、学は当(まさ)に正しかるべく、行は当(まさ)に方なるべし。夫れ学正しければ則ち惑はず。行方なれば則ち乱れず。一邪奸其の間に有らんと欲すと雖も豈(あ)に得べけんやと。蓋(けだ)し先生の養ふ所知るべし。 享年五十七、配は増谷氏、名は冬野、琴松園たり。後るること◯年にして逝(ゆ)く。嗣は龍。二女あり。長は佐賀氏に、次は中井氏に適(ゆ)く。 先生人となり豪邁、終りに臨むや、予(あらかじ)め其の歿日を知りて族人を召し、之が具を作ることを命ず。期に至るや、端坐容を改めて、絶ゆること果して其の言の如し。一郷之が為に惻然(そくぜん)たり。又書を善くし、俳歌を詠(よ)むを好みて佳作多しと云ふ。 門人門永俊撰書 題字男龍
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