奥州仕置
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影響
豊臣政権の支配下に組み込まれた奥羽では、検地が実施されて諸大名家の石高が確定し、それを基準とした軍役が課せられた。また、この時所領を安堵された奥羽の諸大名は、豊臣政権に公認された「主君」という立場を利用して家中への統制を強化し、これまで同族連合的雰囲気が強かった伊達・南部などの大名家が近世大名へと変容する契機となった。この奥州仕置により、秀吉の天下統一事業は遂に完成した。
しかし、豊臣政権による強引な大名の再配置は多くの不満と軋轢を生んだ。まず、仕置軍の主力が奥州から引き上げると、改易された葛西氏・大崎氏の旧臣が中心となった葛西大崎一揆が木村領で発生する。これに呼応するかのように、旧和賀領と旧稗貫領で和賀・稗貫一揆、出羽仙北地方で仙北一揆、出羽庄内地方でも藤島一揆が発生した。また、仕置によりそれまで南部氏内部で南部信直とほぼ対等な立場にあった九戸政実が、信直の家来として扱われたことに不満を抱いて信直と武力衝突を起こした(九戸政実の乱)。豊臣政権はこうした一揆・紛争を鎮圧するため、翌天正19年(1591年)に大規模な軍勢を派遣せざるを得なくなったのである。
一方で所領を安堵された安東実季は、後年になって奥羽仕置を振り返り「百年程前の出羽・陸奥両国では、庄内・最上・南部・秋田・仙北・津軽に分立し、各領主は仲が悪く闘争に明け暮れていた。しかし豊臣秀吉により天下が統一され互いに和潤の状態になった」とし、仕置によって東北の戦乱状態が解消された事を評価している[18]。
脚注
関連項目
- ^ 銀伊予札白糸威胴丸具足 兜・小具足付 - 仙台市、2020年1月18日閲覧。
- ^ 遠藤ゆり子編『東北の中世史 4 伊達氏と戦国争乱』吉川弘文館、2015年、262-263頁。
- ^ 中野等「豊臣政権の関東・奥羽仕置(続論)」『九州文化史研究所紀要』58号、九州大学附属図書館付設記録資料館九州文化史資料部門 、2015年、140頁。
- ^ 中野、2015年、148-149頁。
- ^ 中野、2015年、152頁。
- ^ 中野、2015年、155頁。
- ^ 天正18年(1590)7月27日付豊臣秀吉朱印状南部信直宛(盛岡市中央公民館蔵) なお糠部郡は寛永11年(1634年)に北、三戸、二戸、九戸の4ヶ郡に分割された
- ^ 田村氏旧領を政宗の家臣・片倉景綱に与え、独立大名に取り立てることを企図したが、景綱が辞退したことにより政宗に与えられるも、葛西大崎一揆の戦後処理にて没収される。
- ^ 前年の湊合戦が総無事令違反に問われた。旧領の三分の二が安堵され、残りは太閤蔵入地とされたが、その蔵入地の代官を任されたため、実質収益は変わっていない。
- ^ 自領内で仙北一揆が起こったのを咎められ、天正19年(1591年)に所領の3分の1が没収される。
- ^ 伊達氏よりさらに遅参したが、先に死去した父親の葬儀で遅れる旨を事前に伝達済みであったこと、さらに徳川家康の執り成しがあったため、咎は無かった。
- ^ 石田三成の執り成しで安堵されるが、前年政宗に奪われた駒ヶ嶺城(新地町)をめぐる相馬氏側の軍事行動(童生淵の戦い)が総無事令違反に咎められ、新地町町域が伊達氏の領地とされる。
- ^ 小田原参陣中に常隆が病没したため、佐竹氏から迎えた養子の貞隆を後継として所領安堵。
- ^ 独立認定。南部氏の所領を避け、日本海側を南下し、豊臣軍が小田原に布陣するよりもさらに前に参陣したため。また、かねてから秀吉と親交があったため。
- ^ 盛安主従は日本海側を南下し、豊臣軍が小田原に布陣するよりもさらに前に参陣したため。ただし盛安は小田原在陣中に病没したため、弟の光盛を後継として所領安堵。
- ^ 津軽氏を反逆者・簒奪者とする訴えは却下。
- ^ それまで高野郡に属していた依上郷(現大子町)が常陸国久慈郡に編入された。
- ^ 長谷川成一「奥羽仕置と東北の大名たち」『白い国の詩』569号、東北電力株式会社広報・地域交流部、2004年、4頁。
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