ちょうせん‐せんそう〔テウセンセンサウ〕【朝鮮戦争】
【朝鮮戦争】(ちょうせんせんそう)
1950年6月、朝鮮半島北部(北緯38度線より以北)を実効支配している「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」が、南部を支配している「大韓民国(韓国)」へ侵攻して勃発した戦争。
「朝鮮戦争」というのは現在の呼称で、当時は「朝鮮動乱」と呼ばれていた。
その発端
1945年の第二次世界大戦終結まで日本(大日本帝国)の支配下にあった朝鮮半島は、日本がポツダム宣言を受諾して降伏したことにより、北緯38度線を境に北側がソ連軍、南側がアメリカ軍の占領下に置かれ、それぞれが朝鮮人による自治政府を樹立。双方とも「自らが朝鮮半島唯一の正当な自治政府である」と主張して対立が続いていた。
そして日韓両国の領有権に起因する摩擦などを経て1950年1月、アメリカのアチソン国務長官が
「米国が責任をもつ防衛ラインはフィリピン~沖縄~日本~アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任をもたない」
と発言、事実上米軍の力が朝鮮半島に及ばないことを公式に宣言した形となった。
これを知った北朝鮮政府が、「アメリカは近い将来、朝鮮半島南部を放棄するだろう」と判断、朝鮮半島の武力統一を目指して侵攻作戦を開始した。
戦闘の推移
当時最新鋭だったT-34戦車を中核とした、北朝鮮軍の奇襲攻撃(国境会戦)に対して、韓国軍は経験や装備の不足から有効な対処が出来ないまま総崩れとなり、瞬く間にソウルが陥落すると言う事態に陥った。
これに対し、アメリカはソ連が安全保障理事会をボイコットしていたのを利用し、安全保障理事会にアメリカ軍を中心とした国連軍の派遣を要請、可決された。
国連軍は韓国救援のため派兵されたものの敗退を続け、6月末には半島南端の釜山(プサン)にまで追い込まれた。
同年9月、国連軍総司令官マッカーサー将軍は、ソウル近くの仁川(インチョン)に部隊を上陸させる奇襲作戦に成功し、9月29日にソウルをほぼ奪還。
これにより釜山とソウルからの挟撃を受けた北朝鮮軍は撤退を始め、国連軍は10月には平壌(ピョンヤン)を制圧、中国国境に迫った。
ところが、前年に中華民国を台湾に追いやって成立したばかりの中国(中華人民共和国)が、国連軍の躍進によって資本主義国家と国境を隣接することを嫌い軍事介入を決断、「義勇軍」として、最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模という大量派兵を行い、山間部を移動しながらの攻撃と人海戦術によって国連軍は押し戻され、12月に平壌、1951年1月には再びソウルが北朝鮮によって奪還された。
しかし、中国人民志願軍は近代兵器に劣り、人海戦術に頼っていたため、度重なる戦闘ですぐさま消耗し、攻撃が鈍り始めた。
これに対し体勢を立て直した国連軍も反撃を開始、同年3月にソウルを再び奪回し、それ以降は北緯38度線付近で戦線が膠着した。
そのため、1953年7月に板門店(バンムンチョム)で休戦協定が結ばれ、北緯38度線付近に軍事境界線(非武装地帯)が引かれた状態で戦闘が一時中断となった。
これ以後、2012年現在に至るもなお休戦状態が続いている。
日本への影響
当時、日本は連合国軍最高司令部(GHQ)のもと、アメリカ軍を中核とする連合国軍による間接軍政統治下にあったが、この戦争で、日本は国連軍の兵站基地として活用されることとなり、これにより巨額の「戦時特需」が発生した。
これが企業の設備投資の活発化や雇用の増大をもたらし、日本経済は第二次世界大戦終戦後の困窮状態から一転して大幅な好景気となった。
そしてこれは、現在にまで繋がる経済発展の基礎となった。
また、米軍の日本駐留部隊の大半が朝鮮半島へ送られたことで空白となった日本国内の防衛のため、GHQ総司令官でもあったマッカーサー将軍の働きかけにより、日本人で構成される武装組織「警察予備隊」が設立された。
(後にこれは「保安隊」を経て陸上自衛隊の母体ともなった。)
更に、朝鮮半島近海に散布された機雷を除去するため、海上保安庁隷下にあった海上警備隊(現在の海上自衛隊の前身)は掃海部隊を極秘に派遣した。
そのため、この戦争は現在に至るまで、日本が参戦した最後の戦争となっており、また、このときに殉職した海上保安官は「日本が参戦した戦争における日本人最後の戦死者」ともなっている。
朝鮮戦争
朝鮮戦争(祖国解放戦争)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 13:54 UTC 版)
「朝鮮人民軍空軍」の記事における「朝鮮戦争(祖国解放戦争)」の解説
1950年に始まった朝鮮戦争(祖国解放戦争)では兵力約2000人(うち操縦士200人、整備士400人)、航空機約200機(うち第一線機150)を以て韓国空軍およびアメリカ空軍と対峙した。開戦時は、Yak-9やLa-9戦闘機などを用いていた。 開戦力後の6月25日、ソウルと金浦(キンポ)飛行場を空爆、27日には水原(スウォン)飛行場を空爆した。7月7日、占領直後の金浦に前進。極東空軍が全面動員されていないにも関わらず、7月4日までに47機の航空機が破壊され、7月第一週の時点で韓国地域への出撃はできなかった。これは物理的な被害と共にアメリカ空軍介入と平壌爆撃に伴う心理的な衝撃があった。ソ連の資料によると、7月に入り空軍はほとんどの戦闘能力を喪失した。アメリカ空軍の資料によると1950年6月~10月に撃墜した北朝鮮機は合計143機(撃墜78機、推定撃墜31機、損傷34機)であり、月別に見ると6~7月に81機、8月に48機、9月に14機を撃墜し、10月に入ると撃墜した航空機は無かった。また1950年8月26日、ソ連軍総参謀部作戦総局に送られた調査報告には、開戦時177機の襲撃機と追撃機を保有していたが、7月20日には85機を失って92機(襲撃機57機、追撃機35機)となり、8月24日には36機の航空機(襲撃機34機、追撃機2機)と23人のパイロットだけしか残っていなかった。 1950年10月19日に中華人民共和国の中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)が参戦すると、空軍は一旦満州で形成立て直しを図り、1951年1月に空軍司令部を設置、同年3月15日には遼寧省安東四道溝にて中国人民志願軍空軍和朝鮮人民軍空軍連合作戦司令部(司令員:劉震(中国語版))が成立、延吉に航空学校を創設し搭乗員を養成、ソ連から更に戦闘機を供与され形勢を建て直した。空軍パイロットの再教育は、1950年12月末に到着したソ連軍第324戦闘飛行師団が担当、1951年1月5日から着手した。第324戦闘飛行師団が1952年1月に満州から撤収後は、第190戦闘飛行師団に置き換えられた。ソ連の計画はアメリカ空軍と直接対決せず、中国のパイロットを訓練させ、その任務を中国に代わらせることであり、この計画は北朝鮮にも同様に適用された。 パイロット養成は延吉の航空学校、満州に駐屯していた第64戦闘飛行軍団、ソ連沿海州、それ以外のソ連地域で行われていた。延吉で初級訓練が行われ、修了した人員は第64戦闘飛行軍団に送られMiG-15の操縦訓練が実施された。沿海州では1950年10月時点で201名が訓練中で、他にキエフ、モスクワ、レニングラード、チカロフ、イルクーツクの航空学校や教育部隊で教育が行われていた。 1951年12月、司令部を平壌に戻し、中国人民志願軍空軍所属のMiG-15とともに前線復帰した。アメリカ軍中心の国連軍も既にF-80やF-84などのジェット戦闘機に更新しており、またMiG-15と同じ後退翼ジェット戦闘機F-86戦闘機とも空中戦となった。それでも、パイロットの練度不足もあり、国連軍が航空優勢を続けた。 北朝鮮空軍はソ連空軍が独ソ戦時に使用した戦術とっており、その一環としてPo-2による夜間爆撃が1950年11月頃から実施された。低空飛行でレーダーに捕捉されずに部隊や飛行場に爆弾を投下した。1950年11月、平壌飛行場に駐留していた米空軍第8戦闘爆撃飛行隊を攻撃して11機の戦闘機を損傷させた。前線膠着後は金浦と水原飛行場が攻撃目標となり、1951年6月17日に2機のPo-2が水原飛行場の第335戦闘迎撃大隊のF-86戦闘機9機に損傷を与えた。1953年6月15日には大統領官邸の景武台に爆弾投下した。国連軍はPo-2迎撃にF-94戦闘機などを投入したが、Po-2の速度があまりにも遅いため迎撃は困難であった。戦争中に少なくとも1機のF-94がPo-2を追撃するために速度を遅くしたため墜落した。この夜間爆撃は、朝鮮戦争で北朝鮮空軍の最も効果的な作戦と評価されている。しかしアメリカ空軍がPo-2離着陸飛行場を大規模爆撃し、Po-2による攻撃は1953年7月上旬以降中止された。Po-2の他にYak-18も使用され、1953年6月に4~5機のYak-18が仁川の油類野積場を爆撃し550万ガロンの燃料を炎上させた。 休戦時点で5個師団を有し、戦闘機はMiG-15、Yak-9、La-11、爆撃機はIl-10、Tu-2のほか、少数のIl-28を有した。
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