朝鮮戦争
祖国解放戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 22:25 UTC 版)
オスマン帝国がムドロス休戦協定を結んで連合国に降伏して第一次世界大戦に敗北したとき、広大な帝国のうちアラブ地域は連合国によってほとんど占領されていたが、アナトリアの全域と東トラキア(ルメリアの一部)、北シリアのアレッポ、ジャズィーラ(現イラク北部)のモースルは依然としてオスマン軍の勢力下に残っていた。しかし、休戦協定が発効すると連合国は休戦協定の条文を盾に、戦時中の列強国同士の協定に従ってオスマン帝国の残存領土に進駐し、アナトリアはイギリス、フランス、イタリア、ギリシャによって各方面ごとに分割占領された。また、これに呼応してアナトリア半島内のアルメニア人やギリシャ人の中から独立運動に乗り出すものが現われ、オスマン帝国は残された領土の中核をなすトルコ人の居住地帯でさえほとんど細切れに分断されようとしていた。 この状況に対しアナトリア各地でも分割に反対する抵抗運動が起こりつつあったが、帝国政府は王朝の保身に走って占領政策に迎合し、ムスタファ・ケマル准将を軍監察官としてアナトリアに派遣した。 ところがケマルには反意があり、1919年5月5日にアナトリア黒海沿岸のサムスンに上陸すると、アナトリアに駐留する帝国軍や活動家を結集して「アナトリア・ルメリア権利擁護委員会」を起こした。同年末に召集された帝都イスタンブールにおける帝国議会も権利擁護委員会の影響下に入り、翌1920年1月28日、帝国領のうちトルコ人が多数を占める地域が不可分であることをうたう「国民誓約」を採択した。 イギリスを中心とする連合国は3月16日にイスタンブールを占領し、アナトリア西南部エーゲ海沿岸を占領するギリシャ軍を抵抗運動の強い内陸に向かって進軍させるとともに、8月10日に帝国政府とセーヴル条約を結んだ。この条約ではトルコ国家に残されるのはアナトリア北部の3分の2に過ぎず、アナトリア東部にはアルメニア人の国家を建設することを認めた。旧ロシア帝国領のアルメニア(現アルメニア共和国領)ではダシナク党によるアルメニア第一共和国が建設されており、東部アナトリアには既にアルメニア軍が侵攻していた。 これに対し抵抗運動の権利擁護委員会はイスタンブールから逃れてきた帝国議会の議員に権利擁護委員会の支部で選出された議員をあわせ、4月23日にアンカラで「大国民議会」を開いた。大国民議会はムスタファ・ケマルを議長に選出し、議長を指導者として独自の内閣と政府を持つ政府に発展する。
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