国境会戦 (朝鮮戦争)
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国境会戦(こっきょうかいせん)は、朝鮮戦争の勃発直後、1950年6月25日に北緯38度線付近を戦場として、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で行われた戦闘である。
注釈
- ^ 韓国軍が推定した戦力は、歩兵師団6個・戦車師団1個基幹の約18万名、戦車約170両、122ミリ砲約120門、航空機約200機などであり、歩兵師団数を除けば、ほぼ正確に読みきっていた[8]。
- ^ 今まで第549陸戦隊として知られていたが、ロシアが公開した「朝鮮の戦闘日報」により第945陸戦隊と確認された。第945陸戦隊は1950年8月に解体され、第24旅団に統合された[17]。
- ^ 第2次世界大戦で、NLPはソ連軍の軽浮橋大隊で運用され、200~250フィートの浮橋を構築することができ、5~14トンの重量の装備を支えることができた。N2Pは中浮橋大隊で運用され、325フィートの浮橋を構築でき、30トンの重量の装備を支えることができた[20]。
- ^ 側面射撃やハッチ内への射撃といった奇策による撃破はあった。なお、ドイツ軍が独ソ戦においてT-34に対して使用したパンツァーシュレックの口径は88mmである。
- ^ 戦争前に第14連隊は第1師団所属となり、代わりに第1連隊が第6師団に配属された。
- ^ 『朝鮮戦争1』によれば第7師団、開戦直後に第12師団と改称したとされている。アメリカが押収したロシア文の人民軍総参謀部偵察命令案(1950年6月18日付)には「第12師団参謀長」あてになってあり、金ジュンセンの『朝鮮義勇軍の密入北と六・二五戦争』は関係者の証言から「入国して第7師団となったが、戦時に第12師団と改称したという記載は誤りだ」と明言している[40]。
- ^ 文献によっては崔仁または崔仁斗としている場合がある。
- ^ 朱栄福によれば、実際の指揮は姜健が担当していたので、金日成が多くの将官の耳目を意識、または金策の身辺に気を使ったのか、もしくは金策の申し出によるのか、大将の階級を与えず、中佐階級だったという[61]。
- ^ 李芳南は開戦時第10師団長とする文献があるが[73][74]、第6師団や第10師団所属だった捕虜の供述[75][76][77]から、第10師団長に就任したのは開戦後でそれ以前は第15連隊長であった。
- ^ 本来であれば工兵大隊長は中佐が任命されるが、日本軍下士官であったことから大尉止まりであった[87]。
- ^ 陸戦史研究普及会は日本陸士58期生としている[88]。
- ^ 文官として情報局に勤務していた[92]。
- ^ 李鐘賛は「匪賊討伐や局地戦では自他共に許す第一人者であったが、戦略を論ずる人ではなかった」と評している[98]。
- ^ 連隊長の白南権中佐は日本の第1騎兵師団で研修を受けていた[94]。
- ^ 38度線にはタコツボ程度の陣地しかなく、後方の予備連隊はほとんど外泊していたため、この準備射撃は北朝鮮軍の攻勢を事前に予告するようなものであった[116]。
- ^ 当時、開城にいた米軍顧問ダリゴ大尉が開城駅で列車から北朝鮮兵が続々と下車しているのを目撃した[121]ことから、第6師団は第13連隊に松岳山から韓国軍を攻撃させ、第15連隊は京義本線の列車を利用して一気に開城駅まで突進させた[122][123]としている。ビョン・ヘソク(변혜석)は、ダリゴの証言以外に北朝鮮軍が列車を利用した記録や証言が見つからないことなどから、北朝鮮軍は列車を使って開城に侵入していないと結論付けた[124]
- ^ 『陸戦史集1』では第3連隊とされているが、同隊はこの時首都警備司令部隷下にあり、誤りと考えられる。
- ^ 『韓国戦争第一巻』による。『朝鮮戦争1』によれば第8連隊。
- ^ 『韓国戦争第一巻』による。『朝鮮戦争1』によれば、第6師団長は外出・外泊を許さなかった。
- ^ 『韓国戦争第一巻』によると、この時期、韓国兵は自走砲(SU-76)と戦車(T-34)を区別できなかった。
- ^ ただし、後述の第10連隊対戦車中隊による安仁津での交戦と混同している可能性もある。
出典
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- 1 国境会戦 (朝鮮戦争)とは
- 2 国境会戦 (朝鮮戦争)の概要
- 3 戦争の準備
- 4 作戦計画および戦力配置の概要
- 5 指導者
- 6 戦闘の経過
- 7 総括
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