19世紀から20世紀の美術
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「西洋美術史」の記事における「19世紀から20世紀の美術」の解説
詳細は「印象主義」、「象徴主義」、および「後期印象主義」を参照 19世紀後半に入ると産業革命の浸透、資本主義社会の発達、科学技術の進歩により都市人口の大幅な増加と階級対立の激化が見られるようになり、社会全体が大きく変動した時代でもあった。このため、美術活動も大きな変革を伴ったのは必然といえる。 建築分野では、シャルル・ガルニエによるパリのオペラ座に見られるような、古典主義を軸としながらも各種建築様式を折衷した建物の造営が主流となり、フランスを中心として高い芸術性を持った建物が各地に作られた。ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクはこの奔流に抗い、機能主義理論を唱えたが、19世紀中には受け入れられず、アール・ヌーヴォーの建築分野において部分的に取り入れられたにすぎなかった。19世紀後半に入ると鉄、ガラス、コンクリート、鉄筋コンクリートといった新しい建材が柱や壁などに大掛かりに用いられるようになった。ジョセフ・パクストンの水晶宮は、初めて大量にガラスを用いた建造物として知られている。また、シカゴ派と呼ばれるアメリカ高層建築の流入も、西洋の建築に大きな影響を与えた。シカゴ派を代表する建築家としてはシュレジンガー・マイヤー百貨店などを設計したルイス・サリヴァンが挙げられる。 彫刻分野では19世紀後半に入り、民族統一や自由を称える記念碑が公共記念物という形で数多く制作された。特に有名なものとしてはフレデリク・バルトルディの『自由の女神像』、ジュール・ダルーの『共和国の勝利』、ポール・アルベール・バルトロメ(英語版)の『死者の記念碑』などが挙げられる。第二帝政期に入るとジャン=バティスト・カルポーが登場し、『ウゴリーノと息子』『ダンス』『フローラの勝利』など、ロココ美術から受け継いだ優雅な形態とカルポー独自の動態表現を見事に融合させた作品を多数制作し、近代彫刻の父と言われるオーギュスト・ロダンに大きな影響を与えた。アルベール=エルネスト・カリエ=ベルーズに師事したロダンは、イタリアでドナテッロやミケランジェロの作品に触れた後、1877年に『青銅時代』を発表した。『青銅時代』は発表当時、あまりの自然的形態から、モデルから直接型取りしたのではないかと批判を浴びるほどであった。注文彫刻として制作した『カレーの市民たち』では、注文という型にはめられた表現からの脱却を試みている。ロダンは写実表現と劇的な内面表現を融合させることを追究し、終生の大作として『地獄の門』を制作した。その他、19世紀末に活動したドイツのマックス・クリンガーは、1902年のウィーン分離派展で素材の多様性を追求した作品『ベートーヴェン』を発表して大きな成功を収めている。 19世紀に入ると絵画分野では、新古典主義の美学を維持しつつも社会情勢にあわせるかのように、新しい市民社会に適応する様々な表現の獲得をはじめた。ブルジョワジーの趣味を作品に反映させたアレクサンドル・カバネルは、1863年にサロンに出品した『ヴィーナスの誕生』によって絶大な人気を博し、ジャン=レオン・ジェロームは『カエサルの死』に代表されるような、迫真の細部描写と瞬間映像的な場面設定で古代の主題を描きあげた。また、ジュール・バスティアン=ルパージュは印象派の色彩や筆致を取り込んだ自然主義的傾向の作品『干し草』を創出し、第三共和国政府の支持を獲得している。 ドイツのアドルフ・フォン・メンツェルによって写実的に描かれた『圧延工場』はきわめて珍しい工場労働者を主題とした作品として知られている。メンツェルの例にあるように、農民や労働者といった現実的主題を優れた絵画才能によって描き出す画家が登場し始める。『草上の昼食』で一大騒動を巻き起こした後も、明るい色調と軽快なタッチで現代生活を主題にした数々の名作を生み出したエドゥアール・マネはそうした若い画家たちの中心的存在として躍動し、1865年にサロンへ出品した『オランピア』で、古典的伝統を近代絵画へリンクさせる役割を担った。こうしたマネの姿勢や表現方法は印象派の画家に重要な指針を与えることとなった。また、エドガー・ドガは、オペラ座に集う貴族から底辺社会で生活を営む洗濯女まであらゆる階層の人々の現代生活を深く広く探求して得た主題を、知的な構図と優れたデッサン力で描き出した。特に、引き締まった肉体を持つ女性たちが様々な姿態を提供してくれるバレエの世界に共感を覚え、バレエを主題とした多くの作品を残している。その他、日本の芸術がジャポニスムと呼ばれ、西洋絵画に影響を与えたのも19世紀の出来事のひとつであった。 19世紀後半に入ると、印象派と呼ばれる人々の描いた印象主義絵画が世を賑わすようになった。「印象派」という呼称が誕生したのは1874年のことで、展覧会に出品していたクロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、ポール・セザンヌ、ドガ、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレーらのスケッチ的な作品の性格をジャーナリストらが揶揄してつけたものに端を発する。中でもモネは印象派グループを作り上げた最も偉大な画家として知られている。印象派の「印象」はモネの作品「印象・日の出」から批評家が揶揄したことから定着した。 印象派画家は、絵具を用いて光を表現することを追究し、筆触分割や視覚混合といった科学的技法を作品に導入し、日本の浮世絵や写真などからヒントを得た構図の切り取りや大胆な俯瞰といった斬新な発想を取り入れた。こうして制作された多くの作品は西洋絵画を新たな局面へ誘う重要な革新として後年高く評価される一因となった。また、印象派の活動を受けて、その理論をさらに発展させようと1880年代から1890年代にかけて活躍したポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホらは後期印象派と呼ばれ、こちらも美術史における重要な働きを残した。 他方、芸術の卑俗化を嫌悪した芸術家たちによって内的な思考や精神世界、夢の世界を表現することが追究されるようになり、印象主義と並んで19世紀後半における芸術の重要な流れを形作ったのが象徴主義であった。その嚆矢とも言えるのがイギリスで起こったラファエル前派の運動である。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジョン・エヴァレット・ミレー、ウィリアム・ホルマン・ハントらによって結成された「ラファエル前派兄弟団」は、ラファエロ以後の絵画を退廃芸術とみなし、それ以前の誠実で理想的な芸術への回帰を主張し、初期ルネサンス時代の絵画に倣った画風で神秘と象徴の世界を描き上げた。その他、象徴主義を代表する画家としてはアルノルト・ベックリン、ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、ギュスターヴ・モロー、オディロン・ルドンなどが挙げられる。 こうした動きは19世紀末にはベルギー、オランダ、スイス、オーストリアなど全ヨーロッパに拡充し、ユーゲント・シュティール、アール・ヌーヴォーといった世紀末運動と密接な関係を保ちながら20世紀の芸術へと受け継がれていった。
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