英国・ドイツでの厳しい教育
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 16:09 UTC 版)
「フィリップ (エディンバラ公)」の記事における「英国・ドイツでの厳しい教育」の解説
その後、親族間でフィリッポスの教育場所が検討された結果、1928年に渡英し、叔父ジョージ・マウントバッテン卿が父代わりとなってプレップ・スクールであるチーム・スクール(英語版)に入学した。ここは伝統的な鞭打ち(体罰)によって、男子生徒を厳しく教育する校風であった。 1933年からはドイツのシューレ・シュロス・サレム(英語版)へ進学した。同校はマクシミリアン・フォン・バーデンが元部下クルト・ハーンを支援して、ドイツ南部バーデンの居城を提供し、英国のパブリック・スクールを手本に設立されたばかりであった。しかしナチスの圧力によって、ハーンが投獄されたため、マクシミリアンの息子で次姉セオドラの夫でもあるベルトルト・フォン・バーデンが新校長となり、同校の国際的評判を高めるために義弟フィリッポスを呼び寄せたのであった。 しかし当時の同校では、親ナチ派と反ナチ派の対立が深まっていた。フィリッポスは反ナチ派であり、学外でナチス式敬礼を嘲笑したところナチス党員とトラブルとなり、姉夫妻はサレム校とバーデン家への不利益を避けるため、フィリッポスを英国に「帰国」させた。なお1934年5月にはギリシアの王制復活が決定されたが、コンスタンティノス1世ではなくゲオルギオス2世が王位に復帰したため、帰国することは叶わなかった。 その頃、釈放されたハーンはスコットランドに新たな全寮制パブリック・スクールであるゴードンストウン校を設立しており、フィリッポスはここに入学する。自分の意思と関わりなく、流転を続けたフィリッポスは、同校の野外活動を含む厳しい教育の中で、将来のリーダーにふさわしい自己規律等を身に付ける。フィリッポスは特にヨットの操船を好み、教官の指導下、シェットランド諸島やノルウェーまで訪問したことが、海軍軍人を志すきっかけとなった。 ハーンの回想によれば、フィリッポスの長所は「負けじ魂」であり、短所は短気さや狭量さであったという。また、幼少期以来のアイデンティティ問題は尾を引いており、思春期に両親や親族の元を訪れては、自分のルーツに関わる質問を熱心に繰り返し、自分が何者なのかを知ろうとしていたという。 1937年11月、三姉セシリア(独:ツェツィーリア)が夫ゲオルクとともに航空事故死した。さらに翌1938年4月には、父代わりであった叔父ジョージ・マウントバッテン卿が45歳で病死した。肉親との死別が続いても、フィリッポスは感情(=プライベート)を表に出すことは一切なかった。 フィリッポスはリーダーとしての頭角を現し、ヨット活動のリーダー、そして『ガーディアン』(≒学生長)に選出された。ハーンは、彼のリーダーとしての資質を高く評価した。 叔父ジョージ・マウントバッテン卿 クルト・ハーン
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