年寄時代
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1961年(昭和36年)1月場所後に引退し年寄・片男波を襲名、内弟子を連れての二所ノ関部屋からの分家独立を考えていたが、1964年に控える理事長選挙の票田を確保しておきたかった二所ノ関(元大関・佐賀ノ花)が許さず、とりあえず新弟子のみで部屋を興し、1962年5月場所前には、内弟子を連れて部屋を飛び出す実力行使まで行った。すると怒った二所ノ関は片男波が連れていった関取2名と有望視された幕下力士2名を除く成年に達した養成員全員分の廃業届を書く。どうにか取り消されたが両者とも減給処分。結局その後、先代の二所ノ関である玉の海を呼んでの話し合いの結果独立は許された。独立後は「心力一如」(心と体が合わさり初めて事が成せる)をモットーに掲げて弟子を育成した。 しかし1971年(昭和46年)10月11日、部屋頭であり、この先益々の大成が期待されていた愛弟子の横綱・玉の海が、虫垂炎の切除手術を受けた入院先の病院で、退院を翌日に控えて肺血栓で急死するという悲劇に見舞われる。 その後、小結・玉輝山、同・玉龍、関脇・玉ノ富士を育てた。1988年1月の停年を控え、1987年9月6日には相撲生活50年を振り返るパーティーを開いたが、9月27日、心不全のため東京都文京区の順天堂医院で死去した。64歳没。玉の海の17回忌法要が行われる予定だったという。
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年寄時代
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現役引退後は年寄・2代大島を襲名、1980年1月に分家独立して大島部屋を開設した。その後は第63代横綱旭富士を筆頭に、関脇旭天鵬・小結旭道山・同旭豊・同旭鷲山・幕内旭豪山・同旭里・同旭南海・同旭秀鵬・十両旭日松(友綱部屋移籍後に入幕)らを育てた。所属力士の大半に、自身の現役時の四股名に因んで、「旭」で始まる四股名をつけていた。これは自身及び所属力士全員が友綱部屋に移籍(後述)して以降も同様であり、旭天鵬・旭秀鵬をはじめとする旧大島部屋から友綱部屋に移籍した力士は全員、旧大島部屋在籍時の四股名を名乗り続けた。 1992年、当時外国出身力士の入門を自粛する方向にあったにもかかわらず、解雇も辞さない覚悟をもって、モンゴルから6人の新弟子をスカウトした。その内5人(旭天山以外の全員)は厳しい稽古や慣れない日本文化を苦にして、7月場所後にモンゴル大使館に逃げ込み、最終的に旭天鵬及び旭鷲山は翻意し帰参したものの、他の3人(旭鷹・旭雪山・旭獅子)はそのままモンゴルに帰国してしまった。部屋に留まった3人はその後、旭鷲山がモンゴル人初の十両・幕内・三役力士となり2006年11月場所まで現役を続行、幕下・旭天山も2007年11月場所まで、そして旭天鵬は2015年9月場所までと、後のモンゴル人力士の時代を築いたパイオニアとして長く現役を続行した。部屋の稽古は厳しく、場所中も何番も相撲を取らせるなどの指導で知られた。旭天鵬は後に「他の部屋はやっていないのに何でと思った。でも、それがその後に生きた」と語った。 1998年から2010年まで6期12年の間、日本相撲協会理事を務めた。この相撲協会理事の選挙は10人の改選を5つある一門ごとに理事候補を調整して無投票で決定することが慣例であったところ、2010年2月の選挙では貴乃花親方が立候補したため4期(8年)ぶりに10人の理事を11人で争う形になったが、評議員の投票の結果8票で落選した。その後は役員待遇委員であったが、大相撲八百長問題で弟子の旭南海が関与したことを受け、2011年4月1日付で委員に降格した。
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年寄時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:28 UTC 版)
引退後は年寄・17代放駒を襲名し、1981年1月28日に花籠部屋から分家独立、花籠部屋から信号一つ西の阿佐谷南に放駒部屋を創設した(この時移籍した内弟子の中に、後に第62代横綱となる大ノ国がいた)。その後、弟弟子で12代花籠を継承した輪島が借金の担保に年寄名跡をあてがうという事件が発覚して廃業すると、一門の総帥であった二子山親方(横綱・初代若乃花)に指名されて花籠部屋の弟子全員を引き取ることになり、放駒部屋は小部屋から一気に大部屋へと躍進した。育てた関取は横綱・大乃国以下11人を数え、阿佐ヶ谷勢の一角を担った。師匠としては「弟子には特別なことは要求しない。社会人として迷惑をかけない。それだけは頭に入れてほしい」という思いで指導した。稽古は厳しく、元三段目の駒響(田中健介)の証言によると、多い日は150番も取らされたという。 大乃国の大関昇進披露宴では、引き出物に名入りの広辞苑を配り、相撲協会関係者や相撲記者を驚かせた。引き出物は押入れの奥にしまうことが多いので、役に立つものにしたかったという考えからだったという。大乃国は、「叱る時、相撲界は“コラッ!”と一発、拳固を食らって済むようなことが多かったなか、師匠は理論的に、理詰めで来る。時に心の臓を撃ち抜かれるくらいの言葉で……。ちゃんこも喉を通らない状態になったこともありますよ。それは、私が横綱を張っていた時でも、変わりませんでした」と引退後述べている。 「クリーン魁傑」と称された現役時代に見せた誠実さは年寄になってからも評価され、引退後1年で審判委員に抜擢される。1992年、出羽海理事長就任と同時に、協会の常勤役員(役員待遇)として事業部副部長、広報部副部長など執行部の要職を十数年に渡り務め、相撲界の論理でなく、外部の人との温度差をうめ、対等にきちんと話をして渡り合う交渉窓口となった数少ない親方として高く評価された。1996年の広報部副部長時代には、NTTによるインターネット事業案件にいち早く着眼し、試験的な段階で、相撲関連サイトを立ち上げさせた。まだ窓口や電話での販売形態が主だった「チケットぴあ」が、ネット販売の方法を模索していた時に、相撲協会がその先駆けとしてモデルケースとなった。 2006年1月場所後に理事へ昇進し、審判部長の要職に就いた。 しかし2006年7月場所で優勝次点ながらも4場所連続で13勝以上した大関・白鵬の横綱昇進と、3場所通算で34勝した雅山の大関再昇進について見送る旨の発言をし、好角家から大きな反発を招いた。白鵬の直前3場所の成績(13勝の優勝同点+14勝の優勝+13勝の優勝1点差)は放駒親方の弟子・大乃国の横綱昇進時の成績(15戦全勝優勝+12勝の優勝1点差+13勝の優勝1点差)を上回り、雅山の直前3場所の成績(34勝11敗)は魁傑自らの大関昇進時の成績(優勝1回を含む30勝15敗)を上回るものであり、その整合性のなさが指摘された。しかし横綱昇進に関しては、形式上は番付編成会議及び臨時理事会で討議されるものの横綱審議委員会が事実上の昇進決定を下す機関となり、また横審委員会も当時は原則的に「大関で2場所連続優勝に『準ずる成績』」というものを採用しなかった。また大関昇進に関しては、その時期における大関の人数、昇進に向けての機運などにも左右されているが、雅山の時は既に大関が5人いる上優勝がないという状況であった。審判部長時代には三賞選考で1つの賞に複数人へ推挙・授与があり、最も適格な力士の単独受賞が望ましいのではと提案した。 2010年8月12日、大相撲野球賭博問題などの責任を取って辞任した武蔵川晃偉理事長の後を受け、第11代日本相撲協会理事長に就任。現役時代のクリーン大関と言われた高潔さと、長年執行部で発揮した事務処理能力の高さを認められたことによる理事長就任だった。理事長就任以降は公益法人移行を巡って議論が本格化してゆき、自身も各自の年寄名跡を協会が2000万円で買い取る一括管理案、最高議決機関である理事会の半数を外部で占める私案などを提唱したが外部役員や外部有識者の意見を尊重しすぎたという評があり、大多数の年寄衆は理解を示さなかった。年寄名跡を巡る改革に関しては中島隆信が後年「“年寄株を巡るこれまでのやり方に手を付けることは無理です。権限もないし、力もない”と話していた」と証言した。2011年2月、八百長問題が発覚、3月の大阪場所開催を中止、続く5月場所は、入場無料でNHKによる中継もない、前代未聞の「技量審査場所」を決断、相撲協会最大の危機の中、諸問題の処理にあたった。糖尿病による義眼で山のような書類と格闘し、降りかかる難題の連続に体力を消耗しながら、粘り強い対話で改革のレールを敷いた。文部科学省へ協会としての対応を報告するため出向いた時、区切りがついたら責任を取って辞任する意向を示したところ、文科省の官僚から「あなたの首は要りません。」と引き止め、「八百長を一切しなかったガチンコ大関・魁傑が八百長問題処理に取り組む運命の皮肉」と報道された。 2012年1月場所後に退任し、相談役に就任。2013年1月場所が協会員として最後の本場所となったが、停年(定年。以下同)を迎えるに当たっての記者会見やNHKのテレビ中継の解説(中入の時間や取組の合間に自身の足跡を振り返る)は一切断わり、自分が辞めさせた力士や親方に申し訳ないと、理事長経験者の定年後の天下り先に定着している相撲博物館館長の席も元武蔵川理事長に譲り、NHKから提示された特別解説者の依頼まで固辞、相撲界からは完全に引退する決断を最終的に選択した。 「最悪の時代を乗り切った最大の功労者であると同時に最大の犠牲者」と言われ、理事長在職1年5か月は最短だが、「存亡の危機に大相撲を救った希代の名理事長」と評価された。同年2月7日に放駒部屋は閉鎖して所属力士らは弟子の大乃国が創設した芝田山部屋に移籍させ、自身は2月15日に定年退職した。 2014年5月18日午後2時10分頃、東京都西東京市のゴルフ練習場で倒れ、同日午後3時21分に搬送先の小平市の病院で死去。66歳没。死因は虚血性心疾患で、30年前より糖尿病に罹っていた。愛弟子であった芝田山(元大乃国)は死去の知らせを受けて「全く体調が悪いところはなかったのに。気持ちの整理がつかない」と話し、さらに「ゴルフ(の練習)に行っていたのだから、俺より健康だったと思う」とも明かした。没後に『浄篤院輝山魁傑居士』の戒名が付けられた。 2014年5月23日に通夜、5月24日に本葬(告別式)が宝仙寺(東京都中野区)にてそれぞれ営まれた。
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