ところ‐がわ〔‐がは〕【常呂川】
常呂川
太陽と緑の大地やすらぎの空間
(注:この情報は2008年2月現在のものです)
常呂川は、大雪山系の十勝、石狩、北見の分水嶺となる三国山にその源を発し、置戸町市街より上流では山間渓流の自然河川、置戸町市街より下流から北見市、端野町までは瀬と淵が交互にみられながら東北東に向け流下し、これより下流は北よりに流路を向けゆるやかな流れで大きな蛇行を繰り返し、常呂町でオホーツク海に注ぐ、流域面積1,930km2、流路延長120kmの1級河川です。 |
北見市を流れる常呂川 |
河川概要 |
| ○拡大図 |
1.常呂川の歴史 |
"流域内の本格的な開拓は明治30年に屯田兵が入植し地域の基礎が作られたことに始まります。常呂川河道を利用して常呂川河口より汽船による輸送が低廉であることから奥地開拓のための交通路としての活用が考えられ、明治30年に浚渫が行われたのが最初の常呂川改修の礎となりました。" |
この流域には遠く先史時代から先住民が移り住み、狩猟生活を行い、独自の一大文化圏(オホーツク文化)を築いていました。その頃の常呂平野はまだ人の住めるような状態ではなく、川の流れに乗って運ばれてくる土砂によって徐々に埋め立てられ、およそ紀元前1000年頃に、部分的に低湿地を残す程度になったと考えられています。
その後の本格的な拓殖の第一歩は明治28年、土佐移民団北光社の入植に始まります。彼らは、道内他地域の屯田兵制による拓殖などとは異なり、理想の新天地を求めこの地域へと移住してきました。その後、岐阜や大分などからの入植が続き逐次開発が進展していきましたが、その開拓の道のりは決して平坦なものではなく、恵まれた自然は一方で開拓者に容赦なく猛威をふるうことになります。 明治31年常呂川で発生した大水害を常呂村史は次のように記しています。 「濁流滔々と渦き、原野一帯泥海と化し、入植者屋根或は大木に頼りて救助を求む、この惨状言語に絶したり」 この水害が契機となり、大正10年より、以来80有余年を経た今日まで営々として、治水工事が進められてきています。 |
2.地域の中の常呂川 |
"常呂川流域は北見市、常呂町、端野町、訓子府町、置戸町、留辺蘂町の1市5町からなる。主要産業は農業でハッカ、タマネギの生産が有名です。主な祭りは訓子府町で7月に河川敷で「ふるさとまつり」が開かれ、「常呂川いかだ下り大会」が行われています。河川敷地は下流河川敷は農耕地、採草地、上流の市街周辺は公園緑地、パークゴルフ場が整備されています。" |
流域の主たる産業である農業は、常呂川の豊富な水の恵みを受け、ハッカに代表される寒地作物の栽培などで独特の位置を占めていました。現在ではタマネギの生産で日本一を誇っているほか、てんさい、馬鈴薯、小麦などの栽培も盛んです。水稲も北見盆地を中心に夏季の高温を利用して栽培されており、オホーツク海沿岸地域では最大の稲作地帯となっています。
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3.常呂川の自然環境 |
"植生は、上流で針葉樹林に囲まれ、哺乳類は貴重種のエゾクロテン、鳥類はオジロワシ、オオワシ魚類は上流部でオショロコマ、昆虫類はヒメウスバシロチョウ、両生類はエゾサンショウウオが確認されています。地形は山地、丘陵地、台地、低地の4種に分類されます。地質は流紋岩、新第三系、中生層がみられます。水質は上流では概ね良好です。下流では工場排水、都市排水の影響がみられます。" |
常呂川流域の植生は、上流部から源流部にかけてエゾマツ、トドマツなどの針葉樹林に囲まれ、上流部の高水敷はオオイタドリ等の雑草地となっています。中下流部では多くの区間で広い高水敷を有し、オオヨモギ等の雑草地、採草地となっています。しかし、一般に河川敷内の耕地化が進んでいるため、発達した河畔林を見ることは少なく、頻繁に行われる伐採等の人為的影響や、洪水等の水の営力による破壊の影響などに強い耐性を持つヤナギ低木林がきわめてよく見られる植生となっています。
流域の水質は北見市より上流では概ね良好であるが、北見市より下流では畜産排水、工場排水、都市排水などの影響により、BOD値(生物的酸素要求量)でみると昭和48、49年以降は減少傾向を示していたものが、昭和58年以降はやや悪化傾向となり、近年は全国的にも”水質の悪い川”という評価を受けることとなり、現在、流域市町村、関係機関、地元農家、畜産家、漁業者などが互いに協力し合い、水質の改善に向けた各種取り組みを模索しています。 |
4.常呂川の主な災害 |
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(注:この情報は2008年2月現在のものです)
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