神武天皇 略歴

神武天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/17 13:25 UTC 版)

略歴

天孫(天照大御神の孫。皇孫(高皇産霊尊の外孫)ともいう)・瓊瓊杵尊[注 3]の曽孫。彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)と玉依姫(たまよりびめ)の第四子。『日本書紀』神代第十一段の第三の一書では第三子とし、第四の一書は第二子とする。兄に彦五瀬命稲飯命三毛入野命がいる。稲飯命は新羅王の祖ともされる。

『日本書紀』によると庚午[注 1](『本朝皇胤紹運録』によると1月1日庚辰の日)に筑紫日向で誕生。15歳で立太子[注 4]吾平津媛を妃とし、手研耳命を得た。45歳時に兄や子を集め東征を開始。日向から宇佐安芸国吉備国難波国河内国紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え中洲(大和国)を征し、畝傍山の東南橿原の地に都を開いた。そして事代主神大物主神)の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とし、翌年に即位して初代天皇になる。『日本書紀』に基づく明治時代の計算によると即位日は西暦紀元前660年2月11日。皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命との間には神八井耳命(かんやいみみ)、神渟名川耳尊(かんぬなかわみみ、綏靖天皇)を儲ける。神武天皇76年に崩御

名称

  • 神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと) - 『日本書紀』(和風諡号
  • 彦火火出見(ひこほほでみ) - 『日本書紀』(
  • 狭野尊(さののみこと、さぬのみこと) - 第十一段の第一の一書での幼名。
  • 神日本磐余彦火火出見尊(かんやまといわれびこほほでみのみこと) - 『日本書紀』神代第十一段第二・第三の一書
  • 磐余彦火々出見尊(いわれびこほほでみのみこと) - 『日本書紀』神代第十一段第四の一書
  • 磐余彦尊(いわれびこのみこと) - 『日本書紀』神代第十一段第二
  • 磐余彦帝(いわれびこのみかど) - 『日本書紀』継体紀
  • 神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)- 『古事記』
  • 若御毛沼命(わかみけぬのみこと) - 『古事記』
  • 豊御毛沼命(とよみけぬのみこと) - 『古事記』
  • 始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀』(美称)

漢風諡号である「神武」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる[4]

事績

神武天皇と八咫烏の肖像。 月岡芳年(1880年)
神武天皇。第一回国勢調査の表紙。1920年

※ 史料は、特記が無い限り『日本書紀』に拠る。

出立

神日本磐余彦天皇(神武天皇)のは彦火火出見(ひこほほでみ)。彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の四男として庚午[注 1]1月1日庚辰の日)[1]日向国で生まれた。母は海神の娘の玉依姫である。生まれながらにして明達で強い意志を持っており、15歳時(甲申[注 5])に太子となった。長じて日向国吾田邑の吾平津媛を妃とし、息子の手研耳命を得た。

甲寅年、45歳時に兄の五瀬命・稲飯命・三毛入野命や諸臣を集め東征を提案し、塩土老翁が語った東方の美しい地(大和国奈良盆地)を紹介した。青山が四方を巡り、その中に天磐船に乗って天降った神がいるという。饒速日命という物部氏の遠祖である。この地こそ都を作り、天下を治める事に適した場所だろうと彦火火出見尊が言うと皆、賛成した。

10月、諸皇子と舟師(水軍)を帥いて東征に出発。目指すは中洲(大和国)である。進んでいくと潮の流れの速い速吸の門で船が前に進めなくなった。難儀していると国神珍彦と出会い、これを舟に引き入れて海導者(水先案内)とする事で無事に筑紫国菟狭(『古事記』では豊国の宇沙)へ上陸することができた。珍彦は椎根津彦(『古事記』では槁根津日子)という名を与えられた。菟狭からさらに水門、安芸国を経た彦火火出見尊は、乙卯年3月吉備国に着き、三年間軍兵を整えた。

試練

『神武天皇東征之図』
八咫烏に導かれる神武天皇。冒頭掲載画像の全図である

戊午年2月、皇師(官軍、彦火火出見尊たち)は吉備国から東へ向かい難波の碕に至った。3月に河内国草香邑の青雲白肩津楯津で泊り、楯津(東大阪市日下)に上陸した。この記述は当時の地形である河内湖の存在を示唆している。そして龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めなかった。そこで東に軍を向けて胆駒山を経て中洲(大和国)へ入ろうとし、この地を支配する長髄彦と孔舎衛坂で戦った。戦いに利なく、長兄の五瀬命は流れ矢にあたって負傷した。そして日の神の子孫の自分達が日に向かって(東に向かって)戦う事は天の意思に逆らう事だと悟ることとなった。彦火火出見尊は兵を集めて草香津まで退き、再び海路南へと向かった。

5月、五瀬命の矢傷が悪化し茅渟(和歌山市近辺)で亡くなった。船が熊野に差し掛かると海は大嵐になり、高波に船は木の葉のように揉まれ海は荒れ狂った。進軍が阻まれる事に憤慨した次兄、三兄の稲飯命三毛入野命が「私の母は海神である」と言い自ら海に入った。すると波も静かになり、嵐は去った。稲飯命には新羅の王の祖であったという記録がある。

熊野に上陸したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。そこへ熊野高倉下が現れ、霊夢を見たと称して天神から授かった神剣韴霊(ふつのみたま)を奉った。これはかつて武甕槌神が所有していた剣である。剣の霊力により軍衆は起き上がる事ができた。

進軍を再開したが、軍衆は山をいくつも越えた所で道がわからなくなってしまった。すると天照大神が夢に現れて八咫烏を遣わし、その案内で軍勢は菟田下県に行きつく事ができた。

8月、菟田県を支配する兄猾を討伐し、弟猾が恭順。続いて吉野を巡行して井光磐排別之子苞苴担之子と出会った。

9月、高倉山に登り、周囲を見渡してみると四方要所は賊に囲まれていた。その夜に夢に天神が現れた。お告げの通りに多くの土器を作り、丹生の川上天神地祇を祀った。この時に天の香久山から土を持ち帰った椎根津彦弟猾に功があった。

決戦

月岡芳年『大日本名将鑑』より「神武天皇」。神武天皇の弓の先に止まった金鵄が光を放ち、長髄彦軍の兵の目をくらませている。

10月、国見丘に八十梟帥を討ち、更に多くの賊たちを偽りの宴会で誅殺した。11月、磯城を支配する兄磯城を討伐し、弟磯城が恭順。12月、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てなかった。すると急に黒雲が空を覆い、辺りも暗くなり、叩き付けるように雹が降ってきた。そして一筋の光が差したかと思うと、金色の霊鵄が現れ、彦火火出見尊の弓の先に止まり、稲光のような瑞光を発した。長髄彦の軍は眩しくて目も開けられずに降参してしまった。

それでも長髄彦は恭順しなかった。彦火火出見尊が天神の子である事を疑ったためである。長髄彦は主君の饒速日尊が持つ神器である天羽々矢と步靫(かちゆき)を見せた。それは本物であり、彦火火出見尊も自分の神器を見せた。これも本物である。長髄彦は彦火火出見尊を天神の子と認めたが、それでも屈服しなかった。そこに饒速日尊が現れ降参するよう長髄彦を説得したが、改める気持ちは無い長髄彦は饒速日尊に誅殺される事となった。

己未年2月、彦火火出見尊は精鋭を選んで土蜘蛛を討ち破り、その場所を磐余と改めた。3月、中洲(大和国)の平定が終わったため、畝傍山のホトリに全軍を招集し、奠都の詔を高らかに宣言した(八紘為宇)。そして畝傍山の東南橿原の地に宮殿を造らせた。そこが今の橿原神宮である。庚申年9月、事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とした。

即位

辛酉1月1日橿原宮にて天皇に即位して初代天皇となり、正妃を皇后とした。即位日はグレゴリオ暦(西暦)では紀元前660年2月11日であり、日本の「建国記念の日」(旧:紀元節)となっている。

即位2年2月2日、大業を成し遂げる事に尽くした人々の功を定め、賞を行った。道臣命は築坂邑に、大来目は畝傍山の西の川辺の地(後の来目邑、現在の橿原市久米町)に居住させ、珍彦(椎根津彦)を倭国造に、弟猾を猛田県主、弟磯城を磯城県主に任じ、剣根という者を葛城国造にそれぞれ任命した。また八咫烏にも賞があった。

即位4年2月23日、天下を平定し終わり、海内無事である旨を詔し、鳥見山中に皇祖天神を祀った。即位31年4月1日、巡幸して腋上の嗛間丘に登り、蜻蛉の臀呫(あきつ の となめ。トンボの交尾する様)に似ている事から、その地を秋津洲と命名した。

神武天皇76年3月11日、橿原宮にて崩御。127歳。

翌年(丁丑年)9月12日畝傍山東北陵に葬られた。

始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称され、「神武天皇(じんむてんのう)」と後に諡された。


注釈

  1. ^ a b c 日本書紀』の記載から換算すれば、ユリウス暦紀元前711年2月13日となる。
  2. ^ 実在していたかどうか様々な説があるが、実在しない伝説上の人物であるとする説が一般であり、通説である。
  3. ^ 神武天皇自身は瓊瓊杵尊を「天祖」と呼び、『日本書紀』は神代下の冒頭で高皇産霊尊を「皇祖」と記している。
  4. ^ 初代天皇の立太子は明らかに不合理であるが、父の彦波瀲武鸕鶿草葺不合命を天皇に準じて扱ったとも見られる。父がいつ崩御したかの記述は無いが、東征開始時に父を「皇考」(亡父の意)と呼んでおり、これ以前に崩じたと見られる。
  5. ^ 日本書紀』の記載から換算すれば、紀元前697年となる。
  6. ^ 干支年は、後漢建武26年(50年)に三統暦の超辰法をやめ(元和2年に正式改暦)以降は60の周期で単純に繰り返している。
  7. ^ 天文学上の記法では-659年2月18日、ユリウス通日は1480407となる。

出典

  1. ^ a b c d 本朝皇胤紹運録』。
  2. ^ a b c 日本書紀』による。
  3. ^ (井上 1973)P275
  4. ^ 上田正昭 「諡」『日本古代史大辞典』 大和書房、2006年。
  5. ^ 『日本書紀(一)』岩波書店 ISBN 9784003000410
  6. ^ 畝傍橿原宮(国史).
  7. ^ 「生命の教育」 平成8年5月号、季刊『生きる知恵』第9号「科学的根拠のある神武天皇伝説」東神会出版室
  8. ^ 樋口清之「日本古典の信憑性-神武天皇紀と考古学」『現代神道研究集成9巻』 神社新報社 1998年
  9. ^ a b 陵墓の治定と祭祀に関する第三回質問主意書”. 衆議院 (2010年11月30日). 2018年9月1日閲覧。
  10. ^ 『陵墓地形図集成 縮小版』 宮内庁書陵部陵墓課編、学生社、2014年、p. 400。
  11. ^ 天皇陵(宮内庁)。
  12. ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)8コマ。
  13. ^ 畝傍山東北陵(国史).
  14. ^ 日本書紀』、巻第28
  15. ^ 真実からやっと神話へ『朝日新聞』1976年(昭和51年)3月1日朝刊、11版、9面
  16. ^ 「神武天皇論」国書刊行会 2020-6
  17. ^ 藤田覚「幕末の天皇」講談社学術文庫 2013 85、86頁
  18. ^ 武田秀章「維新期天皇祭祀の研究」大明堂 平成8年 52‐84頁
  19. ^ 清水潔「神武天皇論」国書刊行会 令和2年 301頁
  20. ^ 田中卓『日本国家の成立』1992年。
  21. ^ 宝賀寿男『「神武東征」の原像』青垣出版、2006年。
  22. ^ 久保田穰『古代史における論理と空想 邪馬台国のことなど』大和書房、1992年。
  23. ^ 志賀剛「大和朝廷の起源と発生」『日本の神々と建国神話』雄山閣出版、1991。
  24. ^ 武光誠『日本誕生』、1991年。
  25. ^ 松前健「古代王権の神話学」雄山閣 2003 183頁
  26. ^ 国史大辞典』吉川弘文出版。
  27. ^ Oldest ruling house”. ギネス世界記録. 2021年6月26日閲覧。






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