神武天皇の死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 04:56 UTC 版)
「ヒメタタライスズヒメ」の記事における「神武天皇の死後」の解説
『日本書紀』によると、神武天皇は127歳で崩御した。細部には相違点があるものの、『日本書紀』や『古事記』には、神武天皇の死後、子供同士の間で起きた後継者争いが描かれている(詳細は手研耳の反逆参照)。 イワレヒコ(神武天皇)は、「ヒムカ国」からの東征に出発する以前に、吾平津媛(阿比良比売)と結婚し、子をもうけていた。しかし神武天皇がヒメタタライスズヒメを正后としたことにより、この子らは庶子の身分となった。神武天皇が崩御すると、この庶子であるタギシミミは皇位を自らが継ごうと考えた。 『古事記』では、タギシミミは未亡人となったヒメタタライスズヒメを自らの妻とし、神武天皇とヒメタタライスズヒメのあいだに生まれた嫡子である皇子たちを暗殺しようとする。これを察したヒメタタライスズヒメは、子供たちに身の危険を知らせるために和歌を2首詠んで送ったという。 .mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}佐韋賀波用(さゐかはよ) 久毛多知和多理(くもたちわたり) 宇泥備夜麻(うねびやま) 許能波佐夜藝奴(このはさやげぬ) 加是布加牟登須(かぜふかむとす) 狭韋河よ 雲起ちわたり 畝火山 木の葉さやげぬ 風吹かむとす (大意)狭井川の我が家の子らよ、タギシミミの方からそちらに向かって風が吹こうとしています(危険が迫っています) 宇泥備夜麻(うねびやま) 比流波久毛登韋(ひるはくもとひ) 由布佐禮婆(ゆふされば) 加是布加牟登曾(かぜふかむとぞ) 許能波佐夜牙流(このはさやげる) 畝火山 昼は雲と居 夕去れば 風ふかむとぞ 木の葉さやげる (大意)畝傍山は昼は曇っているが、夕方が過ぎて夜になれば風が吹くだろうと木の葉が騒いでいる これらの寓意歌によりタギシミミの反逆の意図を知った嫡子たちは、逆に先手を打ってタギシミミを討ち取った。その際に最も活躍した神沼河耳命が皇位を継ぎ、2代天皇(綏靖天皇)として即位した。『日本書紀』にしたがえば、綏靖天皇元年正月8日にヒメタタライスズヒメは「皇太后」を称するようになったという。 綏靖天皇は正妃として五十鈴依媛命を迎えた。五十鈴依媛命はヒメタタライスズヒメの実妹であり、綏靖天皇からみると叔母にあたる。ただしこれには異伝があり、綏靖天皇の妃となった人物を河俣毘売とするものや皇后を糸織媛とするものがある。
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