神武天皇のモデル説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 20:46 UTC 版)
直木孝次郎は、記紀の神武東征神話は、史実としての継体天皇の大和入りをモデルとして形成されたものではないか?と指摘している。 「神武天皇が東征の途中、筑紫の岡田宮や阿岐の多祁理宮や吉備の高島宮に滞在したことは、六世紀初め、越前(福井県)から現れて皇位を継いだ継体天皇が、大和へ入るまでに、河内の樟葉、山背の筒城、同じく山背の弟国に数年ずつ滞在したことと関係があると思われる。 『日本書紀』によると、継体天皇は筒城に七年、弟国に八年滞在しているが、『古事記』にみえる神武天皇は多祁理宮に七年、高島宮に八年滞在する。この一致は偶然とは思われない。 神武天皇が大阪平野から直接大和へ入らず、熊野を迂回するのは、継体天皇が越前を出発してから大和へ入るのに、大変手間取っている事に影響されたのではあるまいか。 古代の歴史物語である「旧辞」が初めてまとめられたのは、この継体天皇から欽明天皇の頃(六世紀前半ないし中葉)であろうということは、津田左右吉氏の研究以来、学界の定説であるが、神武天皇の物語の骨組みもこの頃に大体出来上がったと思われる。」 と述べている。
※この「神武天皇のモデル説」の解説は、「継体天皇」の解説の一部です。
「神武天皇のモデル説」を含む「継体天皇」の記事については、「継体天皇」の概要を参照ください。
- 神武天皇のモデル説のページへのリンク