神武天皇の妻問い説話
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「ヒメタタライスズヒメ」の記事における「神武天皇の妻問い説話」の解説
神武天皇は即位に先立ち、初代天皇に相応しい正妃を迎えることになった。このとき、ヒムカ国からイワレヒコ(神武天皇)に付き従ってきた家臣である大久米命が、后候補として推挙したのがイスケヨリヒメ(ヒメタタライスズヒメ)だった。『古事記』では、大久米命がイスケヨリヒメの出生の逸話について神武天皇に説明し、「神の御子」であるイスケヨリヒメこそ正后に値すると説く。 『古事記』には、7人の女性が狭井川の岸辺にいるところを神武天皇と大久米命が目撃し、その中から后を選んだという逸話が掲載されている。この際、神武天皇と大久米命、イスケヨリヒメとのあいだで歌を交わすやりとりは、神武天皇の「妻問い説話」としてよく知られている。 夜麻登能(やまとの) 多加佐士怒袁(たかさじぬを) 那那由久(ななゆく) 袁登賣杼母(をとめども) 多禮袁志摩加牟(たれをしまかむ) 倭の高佐士野(たかさじぬ)を七行く媛女ども誰をしまかむ (大意)大和国の川の畔の高台をゆく7人の乙女のうち誰を妻とするか 「高佐士野」は、狭井川沿いの台地を指している。狭井川は三輪山を源とする小川で、大神神社境内ちかくを流れる。大和川(初瀬川)に合流する手前では天井川となって川岸が高くなっている。 加都賀都母(かつがつも) 伊夜佐岐陀弖流(いやさきだてる) 延袁斯麻加牟(えをしまかむ) かつがつも いや先立てる 兄をしまかむ (大意)先頭をいく年長者(イスケヨリヒメ)にしよう この神武天皇の意を受けて、大久米命はイスケヨリヒメに会いに行く。するとイスケヨリヒメは、見慣れない風貌の大久米命に驚きこう答える。 阿米都都(あめつつ) 知杼理麻斯登登(ちどりましとと) 那杼佐祁流斗米(などさけるとめ) 天地 千鳥真鵐 など黥ける利目 (大意)あなたはなぜ、いろいろな鳥のように目のまわりに入れ墨をして、鋭い目つきをしているのですか。 これに対し大久米命は次のように返す。 袁登賣爾(をとめに) 多陀爾阿波牟登(ただにあはむと) 和加佐祁流斗米(わがさけるとめ) 媛女に 直に逢わんと 我が黥ける利目 (大意)あなたのことを直接よくみるために、鋭い目つきをしているのです。 このあと、イスケヨリヒメは嫁入りを承諾する。神武天皇は「佐韋河(狭井川)の上」にあるイスケヨリヒメの家に行って一泊する。このときの様子は次のように詠まれている。 阿斯波良能(あしはらの) 志祁志岐袁夜邇(しねしきをやに) 須賀多多美(すかたたみ) 伊夜佐夜斯岐弖(いやさやしきて) 和賀布多理泥斯(わかふたりねし) 葦原の 穢しき小屋に 菅畳 いや清敷きて 我が二人寝し (大意)河原の草むらにあるむさ苦しい小屋にスゲの畳をきれいに敷いて、二人で寝た この部分には、狭井川の地名の由来に関する注釈がある。この辺りには「山由里草」(ヤマユリ、実際にはササユリのこと)が多く、ヤマユリの異称を「佐韋」というので、この川を「佐韋河(狭井川)」と呼ぶとある。現代の狭井川の右岸には「神武天皇聖蹟狭井河顕彰碑」が設置されている。
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