皇室財産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/27 17:55 UTC 版)
歴史
古代
古代における皇室財産の実態は不明な部分も多いが、屯倉・御厨などの所有の形で保持されてきた。『日本書紀』の記述を信じるならば、垂仁天皇27年(紀元前3年)に最初の屯倉が設置されたとされている。これらは律令制以後は大炊寮・内膳司の管理下に置かれて皇室の直接支配からは離れた。平安時代に入ると、これらに替わるものとして勅旨田・勅旨牧などの設定が行われた他、上皇の生活保持のために後院による私領が形成された。院政成立後は上皇(院)の元に大量の荘園が集中したこと、院宮分国の確立によって、治天の君が一大荘園領主となるとともに国衙領や女院領・御願寺領などを含めた膨大な皇室財産を運営するようになった。
中世
その後、承久の乱に伴う鎌倉幕府による皇室領の大量接収(後に後高倉院に対して返還される)や皇統分裂に伴う皇室領の分裂などを経て、明徳の和約による南北朝の統一によってその大半が持明院統の嫡流とされた伏見宮家の元に集中された。だが、同家と嫡流の地位を争っていた後小松天皇が伏見宮家から所領をことごとく奪い、室町幕府を巻き込んだ内紛となるが、後小松系統の断絶と伏見宮家への皇位継承(後花園天皇)によって漸く安定した。また、これによって院政が中断したために仙洞領が天皇の下に統合された。この時期になると、室町幕府の公方御料と区別する意味で・禁裏御料・皇室御領などと呼ばれるようになる。また、南北朝時代から室町時代にかけて諸司領や、率分関・供御人制度が設けられてそこから上納される金銭収入で不足を補うようになっていった。だが、戦国時代に入ると山国荘などのように禁裏御料であった各地の荘園が地元の戦国大名や国人領主に侵奪され、収入の滞った皇室では後土御門天皇の葬儀が1か月以上も開けずに遺体が放置されるなどの深刻な状況となった。
近世
織田信長・豊臣秀吉は皇室に所領の一部を献上して漸く7千石分の禁裏御料を確保した。1601年に徳川家康は改めて1万石を禁裏御料として確定させ、以後江戸幕府は1623年と1705年にそれぞれ1万石ずつ所領を献上して以後3万石の禁裏御料が確定する。その他に豊臣政権時代に定められてそのまま継承された京都の銀地子や宇治・田原の茶に対する賦課(茶役)などによる収入があった。また幕府が任じた武家官位を朝廷が正式な官位・官職として勅許される際に、任官される諸大名や旗本は従五位下諸大夫で金十両、大納言で銀100枚といった具合に天皇に対して金子を進上することになっていた。武家官位の授与数は年間で3桁以上になるため、武家官位の授与は江戸時代の朝廷にとっては大きな収入源になっていた[3]。
この他に朝廷に奉仕する公家にも公家領が与えられ、それが約10万石あったとされている。大政奉還直前の1867年、徳川慶喜は山城一国23万石を禁裏御料として献上する事で朝廷との関係をつなぎ止めようとするが、失敗に終わっている。戊辰戦争によって朝廷は幕府及び佐幕派諸藩より計150万石を没収して禁裏御料に編入している。これが明治政府の国有財産としてその財政基盤となる。
近代(大日本帝国憲法)
普通の国有財産となったもの | 皇室用財産とされたもの | ||
---|---|---|---|
名称 | 土地面積(m2) | 名称 | 土地面積(m2) |
高輪御料地 | 11,273 | 皇居 | 881,803 |
常盤松第二御料地 | 4,513 | 赤坂離宮 | 640,764 |
四谷第二御料地 | 33,506 | 常盤松御用邸 | 19,822 |
落合御料地 | 11,242 | 高輪南町御用邸 | 39,523 |
高田第一 ~ 第五御料地 | 215,913 | 葉山御用邸 | 130,067 |
新宿御苑 | 356,324 | 沼津御用邸 | 154,927 |
紀尾井町第三御料地 | 9,629 | 那須御用邸 | 12,253,914 |
三番町第一 ~ 第三御料地 | 24,325 | 京都御所 (大宮御所、仙洞御所を含む。) |
201,581 |
喜多見第一御料地 | 110,906 | ||
各府県神社 | 1,096,826 | 桂離宮 | 65,165 |
日光御用邸及び同水源地 | 42,613 | 修学院離宮 | 569,748 |
田母沢御用邸及び同附属地 | 107,085 | 正倉院 | 89,994 |
塩原御用邸 | 51,168 | 東宮御仮寓所(建物のみ) | 1,243 |
伊香保御用邸 | 248,905 | 下総御料牧場 | 5,238,123 |
新冠御料牧場 | 170,845,118 | 新浜鴨場 | 324,145 |
京都山科第一 ~ 第三御料地 | 10,803 | 埼玉鴨場 | 116,142 |
鎌倉第二御料地 | 4,680 | 陵墓 | 6,561,040 |
計 | 174,173,556 | 計 | 27,187,192 |
大日本帝国憲法下では、天皇の個人的財産は御料(ごりょう)あるいは御料地(ごりょうち)と呼ばれ、帝国議会の統制外にあった。御料そのものは憲法制定以前から存在し、明治維新後に木戸孝允・徳大寺実則・元田永孚らによってその充実を求める意見書が出されていたが、大部分の御料の形成は憲法制定に深いかかわりがあった。日本における国会開設と憲法制定は、自由民権運動への譲歩という側面を持ち、そこでは国家予算が国会の承認を要することになった。これを嫌った岩倉具視は、国会開設前に国有財産の相当部分を皇室財産に移し、国会から遮断することを考えた。そこで、1898年(明治22年)頃にそれまでの官有林(国有林)は大部分が御料林にされ、他の形でも国の財産が皇室財産に大規模に転換された。また、1884年に大蔵卿松方正義の建議によって日本銀行・横浜正金銀行、続いて1887年には日本郵船の政府保有株式が次々と皇室に献上されている。
御料および皇族財産の管理については法律ではなく皇室令という法形式をとる皇室財産令により規定された。御料は世伝御料と普通御料に分かれ、世伝御料はその名の通り代々受け継がれるべきもので、(旧)皇室典範第45条により分割譲与を禁じられた。
- ^ 「22. 皇室用財産明細」、『財政金融統計月報』第825号 p.148、財務省財務総合政策研究所編、2021年1月、2021年5月16日閲覧。
- ^ a b 象徴天皇制に関する基礎的資料、衆議院憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会、2003年。
- ^ 藤田覚『天皇の歴史06 江戸時代の天皇』(講談社、2011年)203-204頁参照。
- ^ なお、1945年(昭和20年)11月時点で、11月3日に箱根・桂・武庫の3離宮を地方自治体に、11月5日に那須金丸ケ原・富士山麓大野ケ原・岡崎郊外高師ヶ原の土地や、42万7000石の木材を日本政府に下賜しており、さらにその一部は民間に払い下げとなっている。これらは一部を除き下表に含まれていないので注意されたし。
- ^ なお、旧皇室財産令においては、御料または皇族財産に関する法律上の行為については宮内大臣をもってその当事者とみなすものとされていた。
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