東久世通禧 東久世通禧の概要

東久世通禧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/02 01:55 UTC 版)

東久世 通禧
ひがしくぜ みちとみ
有爵者大礼服に勲一等旭日桐花大綬章を着用した東久世
生年月日 1834年1月1日
出生地 京都
没年月日 (1912-01-04) 1912年1月4日(78歳没)
称号 従一位
勲一等旭日桐花大綬章
伯爵
配偶者 東久世貞子

在任期間 1892年3月17日 - 1912年1月4日

在任期間 1890年10月24日 - 1891年8月1日

第2代 開拓長官
在任期間 1869年9月13日 - 1871年5月9日

在任期間 1868年8月5日 - 1868年11月5日

在任期間 1868年5月12日 - 1868年8月5日

その他の職歴
初代 横浜裁判所総督
1868年4月11日 - 1868年5月12日)
外国事務総督
1868年2月10日 - 1868年3月13日
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七卿落ちで長州に逃れた尊王攘夷派公卿の1人[2]王政復古後は外国事務総督を務め、発足したばかりの新政府の外交折衝にあたる。神奈川府知事開拓長官侍従長などの要職を歴任し、後に貴族院副議長・枢密院副議長に至った。華族伯爵)。号は竹亭、古帆軒。

生涯

天保4年(1833年)、東久世通徳(みちなる、1816年 - 1835年)の子として京都に生まれる。幼名は保丸。

天保13年(1842年)、東宮統仁親王(後の孝明天皇)付きの御児として召し出され、所謂「御学友」的な存在として位置づけられていた[3]

幕末朝廷で少壮の公家として尊王攘夷を唱え活躍した。しかし文久3年(1863年)、八月十八日の政変によって、朝廷の実権が尊皇攘夷派から公武合体派に移ると、長州藩兵に守られ、三条実美三条西季知澤宣嘉壬生基修四条隆謌錦小路頼徳とともに船で長州へ逃れた。このことを世に「七卿落ち」という。元治元年(1864年)、長州から大宰府に移された。

慶応4年(1868年)、王政復古によって復権を果たす。1月17日外国事務総督の1人となり明治政府最初の外交問題・神戸事件の対応責任者となり伊藤博文と共に外国と協議。3月19日には横浜裁判所総督となり江戸開市事務総督も兼ねた。鳥羽・伏見の戦いでは外国公使の局外中立布告が4月に至っても解除されず、東久世は13日に、徳川慶喜征討の軍を引き上げる代わりに局外中立の廃止を求めた書簡を各国公使に送っている[4]。通禧の在任した半年の間に神奈川裁判所総督・神奈川府知事と名称が変遷したこの職は現在の神奈川県知事に相当するものである。

明治2年(1869年)8月25日、第2代開拓長官に任命された。前任の鍋島直正が実務にとりかかる前に辞職したため、実質的に開拓使の事業を始動させたのは通禧である。9月21日、開拓使吏員、農工民約200人をともない、イギリスの雇船テールス号で品川を出帆。9月25日に箱館に着任した。なお、同月には王政復古の功績として賞典禄1000石を給されている。翌年、ガルトネル開墾条約事件の和解にこぎつける。

明治4年(1871年)10月15日、侍従長に転じる。この年、岩倉具視を全権とする岩倉使節団に随行し、見聞を広める。

明治15年(1882年)、元老院副議長。華族令施行に伴い、明治17年(1884年)に伯爵に叙されている。東久世家の家格は羽林家であり、本来は子爵相当であったが、明治維新における通禧の功が考慮されて伯爵とされた。叙爵の時点で功績が考慮された公家は、岩倉具視や三条実美など数少ない。

明治21年(1888年)に枢密顧問官、明治23年(1890年)10月24日に貴族院議員・副議長[5]、明治25年(1892年)に枢密院副議長を歴任した。

明治31年(1898年)、松浦詮(心月庵)が在京の華族、知名士等と設立した輪番茶事グループ「和敬会」の会員となる。会員は、青地幾次郎(湛海)・石黒忠悳(况翁)伊藤雋吉(宗幽)伊東祐麿(玄遠)・岩見鑑造(葎叟)・岡崎惟素(淵冲)・金澤三右衛門(蒼夫)・戸塚文海(市隠)東胤城(素雲)久松勝成(忍叟)・松浦恒(無塵)・三田葆光(櫨園)・三井高弘(松籟)安田善次郎(松翁)の以上16人(後に益田孝(鈍翁)高橋義雄(箒庵)が入会)で、世に「十六羅漢」と呼ばれた。

墓所は中目黒長泉院

栄典・授章・授賞


  1. ^ a b c d 平成新修旧華族家系大成』下、384-385頁。
  2. ^ “東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)の解説”. goo人名事典. https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E4%B8%96%E9%80%9A%E7%A6%A7/ 2020年2月28日閲覧。 
  3. ^ 林大樹『天皇近臣と近世の朝廷』(吉川弘文館、2021年) P108-109・136-137.
  4. ^ 朝報掲要 1868.
  5. ^ 『官報』第2198号、明治23年10月25日。
  6. ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
  7. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  8. ^ 『官報』第1952号「叙任及辞令」1889年12月28日。
  9. ^ 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
  10. ^ 『官報』第4651号「叙任及辞令」1899年1月4日。
  11. ^ 中野文庫 - 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧(戦前の部)
  12. ^ 『官報』第7194号「叙任及辞令」1907年6月24日。
  13. ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻、386頁。
  14. ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻、39頁。
  15. ^ 憲政資料室の所蔵資料 東久世通禧関係文書(寄託)”. 国立国会図書館. 2014年3月21日閲覧。


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